疲労困憊…
2001年5月29日 ううー、疲れています。
ここの所、4、5月まともに週末を休んだ事が無い事に今更のように気がつく。そうなんです、結構心身ともに無理をしていたようです。
「別に就活やってないお前がなんでそんなに疲れているんだ?」と思われる方も要るかもしれませんね。実際そうですね(笑)爆裂して教員採用試験の勉強してたわけでもない…。
まぁ色々とやっているんですよ。ここんとこ。
とても深ーい、ひょえーって感じの素敵な体験をしてきました。そして沢山の子供達と遊んでました。
海で遊んだり、友達と徹夜でカラオケしたり、バイトしたり、教育実習の準備したり、ホントにものすごい濃い2ヶ月だったんだなぁと振り返って思います。
この日記を始めたのも確か4月だったような。そうそう、4月には「承認」っていうとても自分を認めるっていう経験もしたんだっけ。
少しづつ成長しているんだなぁ。俺も。
でもその一つ一つの学びをゆっくり受け取る余裕が少し無かったのかなと今気づいてしまったりしている。理解を深めて行く余裕にこれから気をつけていきたいなと思っている今日この頃です。
さて、もう3日後に実習が始まります。
どんな自分がいるのでしょうか。どんな経験をして行くのでしょう。そんなことをしっかり見つめて行ける2週間にしようと思います。「私」という人が、「あなた」という他者に、どれだけ近づけるのか。どれだけ感じられるのか。そして「あなた」という「私」にどれだけの理解が生じるのか、体験をするのか。そんな事を学んできます。
現実的には教材研究に追われている毎日です。実際、疲労が溜まり過ぎていて決して順調ではないのかもしれませんが…(涙)。
心身ともにゆっくり休めて、生徒達の前に元気な姿で立ってきます。お互いにとって大きく成長できる機会となりますように…。
ここの所、4、5月まともに週末を休んだ事が無い事に今更のように気がつく。そうなんです、結構心身ともに無理をしていたようです。
「別に就活やってないお前がなんでそんなに疲れているんだ?」と思われる方も要るかもしれませんね。実際そうですね(笑)爆裂して教員採用試験の勉強してたわけでもない…。
まぁ色々とやっているんですよ。ここんとこ。
とても深ーい、ひょえーって感じの素敵な体験をしてきました。そして沢山の子供達と遊んでました。
海で遊んだり、友達と徹夜でカラオケしたり、バイトしたり、教育実習の準備したり、ホントにものすごい濃い2ヶ月だったんだなぁと振り返って思います。
この日記を始めたのも確か4月だったような。そうそう、4月には「承認」っていうとても自分を認めるっていう経験もしたんだっけ。
少しづつ成長しているんだなぁ。俺も。
でもその一つ一つの学びをゆっくり受け取る余裕が少し無かったのかなと今気づいてしまったりしている。理解を深めて行く余裕にこれから気をつけていきたいなと思っている今日この頃です。
さて、もう3日後に実習が始まります。
どんな自分がいるのでしょうか。どんな経験をして行くのでしょう。そんなことをしっかり見つめて行ける2週間にしようと思います。「私」という人が、「あなた」という他者に、どれだけ近づけるのか。どれだけ感じられるのか。そして「あなた」という「私」にどれだけの理解が生じるのか、体験をするのか。そんな事を学んできます。
現実的には教材研究に追われている毎日です。実際、疲労が溜まり過ぎていて決して順調ではないのかもしれませんが…(涙)。
心身ともにゆっくり休めて、生徒達の前に元気な姿で立ってきます。お互いにとって大きく成長できる機会となりますように…。
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素晴らしい晴れの日
2001年5月28日 みなさんこんにちは。
今日はとても天気がいいですねー♪
起きる時に窓をあけたら「スゥー」っと心地よい風が入ってきて、一気に気分がいい今日です。
さて、土日でリフレッシュしてきて、勉強しよういかなと思ったらこの天気。うー、芝生で昼寝したーい。
なんか文章がでてこないので、また今度。
今日はとても天気がいいですねー♪
起きる時に窓をあけたら「スゥー」っと心地よい風が入ってきて、一気に気分がいい今日です。
さて、土日でリフレッシュしてきて、勉強しよういかなと思ったらこの天気。うー、芝生で昼寝したーい。
なんか文章がでてこないので、また今度。
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教員採用試験志望書提出♪
2001年5月25日 昨日の雨が嘘のように晴れあがっている今日。
行ってきました。県庁へ。
教員採用の志望書を昨日完成させ、受付最終日に提出。いやいや、これで準備は整った。あとは、実習を順調にこなし、試験に向けひたすら2週間あがくのみ!
さて、教材研究やりますか。
昨日から風邪を引いてしまい、ちょっと喉が痛い
。何かと忙しくなるこの時期。同じ教員採用を受ける方、就活を頑張っている方、受験勉強を頑張っている方、体調にはくれぐれも気をつけましょう。
行ってきました。県庁へ。
教員採用の志望書を昨日完成させ、受付最終日に提出。いやいや、これで準備は整った。あとは、実習を順調にこなし、試験に向けひたすら2週間あがくのみ!
さて、教材研究やりますか。
昨日から風邪を引いてしまい、ちょっと喉が痛い
。何かと忙しくなるこの時期。同じ教員採用を受ける方、就活を頑張っている方、受験勉強を頑張っている方、体調にはくれぐれも気をつけましょう。
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教壇へ。
2001年5月24日 久々の更新になります。最近気持ちばかり焦ってしまって「あんまり考えるなよ」って自分に言い聞かせています。
今日母校の教壇へ立ってきました。
挨拶だけだったんですけど。
まぁ緊張しましたよ。ガラにも無く。懐かしい空間、若若しい生徒達の顔…、一段高い所に上がっている自分。
もう「先生」と呼ばれている自分。
みんなの視線、好奇心とエネルギッシュな視線の中に、確かにある鋭さ…。すごいエネルギーだった。
今ふと最近まで頭でっかちになっていた自分に気がつく。「教育とは…、授業とは…、先生とは…」と考えてばかりいて身動きが取れなかった自分がいた。
今日高校生のみんなの前に立って、「目の前にこんなに多くの人がいるんだ」ということを改めて思った。この子達と学んで行くんだなぁって。そしたらなんだか少し楽になった。みんなで作ってこうって。そしてみんなで作りやすいように、色んな準備をしていこうって。
授業ひとつ取っても、一人でうーん、って考えるより、こんな考え方する人もいるかな、こんなこと面白いっておもってくれるかなって作っていこうと思います。
なんかとても楽しみです。
いよいよ教育の現場へ…。あと1週間。
今日母校の教壇へ立ってきました。
挨拶だけだったんですけど。
まぁ緊張しましたよ。ガラにも無く。懐かしい空間、若若しい生徒達の顔…、一段高い所に上がっている自分。
もう「先生」と呼ばれている自分。
みんなの視線、好奇心とエネルギッシュな視線の中に、確かにある鋭さ…。すごいエネルギーだった。
今ふと最近まで頭でっかちになっていた自分に気がつく。「教育とは…、授業とは…、先生とは…」と考えてばかりいて身動きが取れなかった自分がいた。
今日高校生のみんなの前に立って、「目の前にこんなに多くの人がいるんだ」ということを改めて思った。この子達と学んで行くんだなぁって。そしたらなんだか少し楽になった。みんなで作ってこうって。そしてみんなで作りやすいように、色んな準備をしていこうって。
授業ひとつ取っても、一人でうーん、って考えるより、こんな考え方する人もいるかな、こんなこと面白いっておもってくれるかなって作っていこうと思います。
なんかとても楽しみです。
いよいよ教育の現場へ…。あと1週間。
暗…
2001年5月21日 最近ちと調子が出ない。
というか絶好調という時がないような気がしている。妙なものだなぁ。
まぁ確かに実習があったり、色々忙しい事には変わりないんだけど、どうもエネルギー不足って感じがしている。なんなんだろう。
最近自分が「死」っていうものに意識を置いているときがあるってことを感じるときがある。「死」なんて自分にはまだ関係無いやと思っていたのに。
このまま生きていて、果たして何ができるんだろう。っていうなんとなくの不安…。まさにモラトリアム人間っていう所なのだろうか。
無気力、ダラダラとした生活。
刺激の無い生活は、きっと問題を起こす事でしか^
まぎれない。
何かをすることではないのかもしれない。
きっと今から逃げているだけなんだと思う。立ち向かっていない自分。今はそれを感じています…。
うーん、今日はこの辺で。
というか絶好調という時がないような気がしている。妙なものだなぁ。
まぁ確かに実習があったり、色々忙しい事には変わりないんだけど、どうもエネルギー不足って感じがしている。なんなんだろう。
最近自分が「死」っていうものに意識を置いているときがあるってことを感じるときがある。「死」なんて自分にはまだ関係無いやと思っていたのに。
このまま生きていて、果たして何ができるんだろう。っていうなんとなくの不安…。まさにモラトリアム人間っていう所なのだろうか。
無気力、ダラダラとした生活。
刺激の無い生活は、きっと問題を起こす事でしか^
まぎれない。
何かをすることではないのかもしれない。
きっと今から逃げているだけなんだと思う。立ち向かっていない自分。今はそれを感じています…。
うーん、今日はこの辺で。
教員になること
2001年5月15日 今日は、改めて自分の中で”教職”に就くということについて考えてみたい。
教員、教師、先生と色んな呼び方があるこの職業。そして近年の少子化に伴ってますます狭き門になっている職業の一つ。まして、学級崩壊や教師の事件や、ノイローゼなど、暗い話に事欠かない話題の職でもある。
なぜ今その職を目指すのか。この大学4年はある意味、就職を決める一生で一番ポイントにある一年であるかもしれない期間を、一般企業に目もくれず追い求めているのか。
それは厳しい就活を避けている逃げなのか、違う、それとも子供は俺が救ってやるという傲慢さを誇示しているだけなのか、それも違う。
それは、僕個人の生き方につながるものがあるからである。
「しっかり物を見て、知ること」それが僕の人生の大きな目標。
そして、多くの人たちと分かち合う中で、豊かさを見出して行く生き方を望んでいる。ではなぜ教員でなければならないのか。
それは、可能性を相手にするからである。
子供とは、可能性である。そして大人が持っている価値観を違った視点で見ている。そんな彼らと、物事を見て、どんな生き方をお互い歩んで行くのかをしっかり見据えることに援助する、伴走者でありたいからである。
そしてそれは同時に、僕という個人に、多くの子供に伴走してもらうことでもある。お互い高めあっていくのだ。
ではなぜ学校か。学校とは一種の閉鎖性を持つ機関である。近年それも少しづつ解け始めているらしいが、一種「社会」という空間、価値体系から良い意味でも悪い意味でも距離を置いているもである。
そこで何をするのか。社会から1歩遠ざかったしてんをもって、生きること、学ぶことをじっと見ていくのである。社会の流れに呑まれ、社会の常識に形を決められる前に、出来るだけ新鮮な、本質を見ぬける姿勢を持つ練習をする。
そんなことを教員としてやってみたい。
もちろん社会に適応しない人間を育てるつもりかと疑問を持つ人がいると思う。適応しないわけじゃない。適応する前に、ワンクッション置く。つまり遊びを作って、ただ呑まれることを防ぐ。
子供、若いものは見ている。
大人社会の矛盾を、弊害を。その彼らと学校という場で、授業や生活を共にするのである。当然自分の矛盾も見透かされるであろう。それも承知の上で向き合ってみたい。それが僕の教員になる理由である。
教員、教師、先生と色んな呼び方があるこの職業。そして近年の少子化に伴ってますます狭き門になっている職業の一つ。まして、学級崩壊や教師の事件や、ノイローゼなど、暗い話に事欠かない話題の職でもある。
なぜ今その職を目指すのか。この大学4年はある意味、就職を決める一生で一番ポイントにある一年であるかもしれない期間を、一般企業に目もくれず追い求めているのか。
それは厳しい就活を避けている逃げなのか、違う、それとも子供は俺が救ってやるという傲慢さを誇示しているだけなのか、それも違う。
それは、僕個人の生き方につながるものがあるからである。
「しっかり物を見て、知ること」それが僕の人生の大きな目標。
そして、多くの人たちと分かち合う中で、豊かさを見出して行く生き方を望んでいる。ではなぜ教員でなければならないのか。
それは、可能性を相手にするからである。
子供とは、可能性である。そして大人が持っている価値観を違った視点で見ている。そんな彼らと、物事を見て、どんな生き方をお互い歩んで行くのかをしっかり見据えることに援助する、伴走者でありたいからである。
そしてそれは同時に、僕という個人に、多くの子供に伴走してもらうことでもある。お互い高めあっていくのだ。
ではなぜ学校か。学校とは一種の閉鎖性を持つ機関である。近年それも少しづつ解け始めているらしいが、一種「社会」という空間、価値体系から良い意味でも悪い意味でも距離を置いているもである。
そこで何をするのか。社会から1歩遠ざかったしてんをもって、生きること、学ぶことをじっと見ていくのである。社会の流れに呑まれ、社会の常識に形を決められる前に、出来るだけ新鮮な、本質を見ぬける姿勢を持つ練習をする。
そんなことを教員としてやってみたい。
もちろん社会に適応しない人間を育てるつもりかと疑問を持つ人がいると思う。適応しないわけじゃない。適応する前に、ワンクッション置く。つまり遊びを作って、ただ呑まれることを防ぐ。
子供、若いものは見ている。
大人社会の矛盾を、弊害を。その彼らと学校という場で、授業や生活を共にするのである。当然自分の矛盾も見透かされるであろう。それも承知の上で向き合ってみたい。それが僕の教員になる理由である。
ベビーシッター奮闘記
2001年5月14日 どうもけいたです。
昨日一昨日と、2日間ベビーシッターを知人の所でやってきました。
改めて子供と一緒に「いる」ことの困難さを感じています。初夏の気候、暖かい日差し、ちょっと強めの南風。そんな絶好の公園日和の中、遊んで来ました。
遊ぶといっても、周りで見ていたり、時に一緒になってふざけて遊んでいたりするわけですけど、なんで子供ってあんなに一日中走っていられるのでしょう???僕もまだまだ20代ですが、既について行けない…笑。
滑り台や、シーソー、砂場遊び、水遊び、子供の頃とても楽しく遊んだことを、何時の間にか大人の視点から見ている自分に気がつく。
滑り台は逆の上らない、水道遊びはぬれるからダメ、砂を人にかけない…いろんな会話が自分の中に出てきます。夕方遅くになって、「そろそろ帰ろうよー」と促しても、「やだ!遊ぶの!」と言い張って聞かないときにはもう「イライラゲージ」がうなぎ上りです(涙)。
やっぱりまだ子供をコントロールしようとしているんだなぁとひと気づいてしまいました。
子供と一緒にいること、同じ感覚を持っていられること、それはとてもエネルギーがいることなんですね。
だって怒ったり、叩いたりして「言うことを聞かせる」事の方がよっぽど楽ですよ。大人に取って。
自分の価値観の中で動かせるわけですから。
それでもじっと見ていること。自分の思いとおりに行かない状況で、「自分」が何を感じているのかを知ることは、ちょっと意識をして始めて気づけるものだと思います。
「イライラしている」自分、「怒ってないよといいながら実は目は据わっている」自分を、暴力を振るった後に、また事故を起こしてしまった後に始めて気づくことにならないように、自分を見張っていることは大切なことだなと感じました。
昨日一昨日と、2日間ベビーシッターを知人の所でやってきました。
改めて子供と一緒に「いる」ことの困難さを感じています。初夏の気候、暖かい日差し、ちょっと強めの南風。そんな絶好の公園日和の中、遊んで来ました。
遊ぶといっても、周りで見ていたり、時に一緒になってふざけて遊んでいたりするわけですけど、なんで子供ってあんなに一日中走っていられるのでしょう???僕もまだまだ20代ですが、既について行けない…笑。
滑り台や、シーソー、砂場遊び、水遊び、子供の頃とても楽しく遊んだことを、何時の間にか大人の視点から見ている自分に気がつく。
滑り台は逆の上らない、水道遊びはぬれるからダメ、砂を人にかけない…いろんな会話が自分の中に出てきます。夕方遅くになって、「そろそろ帰ろうよー」と促しても、「やだ!遊ぶの!」と言い張って聞かないときにはもう「イライラゲージ」がうなぎ上りです(涙)。
やっぱりまだ子供をコントロールしようとしているんだなぁとひと気づいてしまいました。
子供と一緒にいること、同じ感覚を持っていられること、それはとてもエネルギーがいることなんですね。
だって怒ったり、叩いたりして「言うことを聞かせる」事の方がよっぽど楽ですよ。大人に取って。
自分の価値観の中で動かせるわけですから。
それでもじっと見ていること。自分の思いとおりに行かない状況で、「自分」が何を感じているのかを知ることは、ちょっと意識をして始めて気づけるものだと思います。
「イライラしている」自分、「怒ってないよといいながら実は目は据わっている」自分を、暴力を振るった後に、また事故を起こしてしまった後に始めて気づくことにならないように、自分を見張っていることは大切なことだなと感じました。
大学生って。
2001年5月11日 今日は、いつもの探求系の日記ではなく、フツーに書いてみようかと思う。
大学に入ってやりたかったこと
「教員」の免許を取ること。それしか当面の目標はなかった。高校生の僕に「おまえどうして大学に行くんだ?」と質問をしたら、きっと上記のように答えたと思う。
そもそも「勉強」ってなんなのか、「教員」になりたいのはなぜなのか、「仕事につく」とはなんなのか、そんな単純で一番難しい問いに、真正面から立ち向かうことを知らなかったあのころ。
やば、授業が始まるみたい。ではまた
大学に入ってやりたかったこと
「教員」の免許を取ること。それしか当面の目標はなかった。高校生の僕に「おまえどうして大学に行くんだ?」と質問をしたら、きっと上記のように答えたと思う。
そもそも「勉強」ってなんなのか、「教員」になりたいのはなぜなのか、「仕事につく」とはなんなのか、そんな単純で一番難しい問いに、真正面から立ち向かうことを知らなかったあのころ。
やば、授業が始まるみたい。ではまた
ふたつのもの
2001年5月10日 人にはふたつのものがある
善と悪 明と暗 真実と虚偽…
それらは常にともにある
光あるところ影があるように
人はどちらかを選ぶ
善であろう 悪であろうと…
一方を選ぶ時
選ばなかったもうひとつを
否定するか覆い隠す
全てが天秤の上で
バランスを取ろうと力を加え
右が下がれば左に力をと
常にその均衡は保たれない
どちらかを選ぶ時
天秤は傾かざるを得ない
選択が早まれば早まるほど
天秤の動きは速くなる
静寂は消えて行く…
真にバランスを取ること…
均衡を保つこと…
それは天秤にものをおかないこと
選択によって片方を否定、無視をやめること
選択は均衡を崩すものとは限らない
選択をすることで見失うひとつがあるのなら
それをじっとみればよい
どれくらい傾いているか
つまりどれだけもうひとつを意識しているか
認めているか…
静寂…
それは限りなく無に近いのかもしれない
しかし無ではない
静寂そのことは「ある」のだから…
均衡はどこにある
均衡は バランスは「とる」ものなのか
静寂のなかに動きは…
ふたつのもの
あらゆる所に存在するもの
私達は既にふたつのものになっている
男と女…
ひとつ と ふたつ
こんなにも簡単な表現に
大きな謎がかくされているのかもしれない…
善と悪 明と暗 真実と虚偽…
それらは常にともにある
光あるところ影があるように
人はどちらかを選ぶ
善であろう 悪であろうと…
一方を選ぶ時
選ばなかったもうひとつを
否定するか覆い隠す
全てが天秤の上で
バランスを取ろうと力を加え
右が下がれば左に力をと
常にその均衡は保たれない
どちらかを選ぶ時
天秤は傾かざるを得ない
選択が早まれば早まるほど
天秤の動きは速くなる
静寂は消えて行く…
真にバランスを取ること…
均衡を保つこと…
それは天秤にものをおかないこと
選択によって片方を否定、無視をやめること
選択は均衡を崩すものとは限らない
選択をすることで見失うひとつがあるのなら
それをじっとみればよい
どれくらい傾いているか
つまりどれだけもうひとつを意識しているか
認めているか…
静寂…
それは限りなく無に近いのかもしれない
しかし無ではない
静寂そのことは「ある」のだから…
均衡はどこにある
均衡は バランスは「とる」ものなのか
静寂のなかに動きは…
ふたつのもの
あらゆる所に存在するもの
私達は既にふたつのものになっている
男と女…
ひとつ と ふたつ
こんなにも簡単な表現に
大きな謎がかくされているのかもしれない…
さぁて、実習だぁ♪
2001年5月8日 今日は蒸し暑かったですね。
霧の中を歩いている感じがして、久しぶりにスーツを着て歩いていたら汗だくになってしまいました。
もっと色んな気候に対応できるフォーマルな服装を考え付かないもんでしょうか。高校や中学の時の服装の暑さを思い出して、制服ならもっと涼しいものとか秋用の軽いシャツみたいなものでもよいじゃんと思っていた頃を思い出しました。
さて、教育実習が間近に迫ってまいりました。
僕の就職活動というか、研修みたいなもんです。
打ち合わせを、高校時代の日本史の恩師をして、改めて教員やりたくなってきました。
教育って常識をそのまま受け継いだり、伝統を重んじたり、受験に合格する為にのみあるものじゃないですよね。
その常識、伝統、受験、その他社会の問題を、ありのままにみたり、直視していったり、疑ってみること(探求する事)の大切さを同時に伝えて行ける可能性を内に秘めているんだと思います。
それを堂々と実行している恩師に見てもらえる事を嬉しく思っていると同時に、緊張します。
どんな2週間になるやら、準備期間はあと3週間。
何が大切か。何が問題か。何を見落としているのか。今何が必要か。様々な「なぜ」をもっていけるよう、日々精進します。
それが僕の人生。理想と現実はある。そこにギャップはある。しかし、そのギャップすら、僕達が作っているんだとしたら、その事を理解して行く人生にして行こうと再び確信した今日1日でした。
【この日記に対するご意見・ご感想はこちらへ】
もし何か感じるものや、感想をお持ちになられたら以下までメール下さい♪
kk-post@lime.plala.or.jp
霧の中を歩いている感じがして、久しぶりにスーツを着て歩いていたら汗だくになってしまいました。
もっと色んな気候に対応できるフォーマルな服装を考え付かないもんでしょうか。高校や中学の時の服装の暑さを思い出して、制服ならもっと涼しいものとか秋用の軽いシャツみたいなものでもよいじゃんと思っていた頃を思い出しました。
さて、教育実習が間近に迫ってまいりました。
僕の就職活動というか、研修みたいなもんです。
打ち合わせを、高校時代の日本史の恩師をして、改めて教員やりたくなってきました。
教育って常識をそのまま受け継いだり、伝統を重んじたり、受験に合格する為にのみあるものじゃないですよね。
その常識、伝統、受験、その他社会の問題を、ありのままにみたり、直視していったり、疑ってみること(探求する事)の大切さを同時に伝えて行ける可能性を内に秘めているんだと思います。
それを堂々と実行している恩師に見てもらえる事を嬉しく思っていると同時に、緊張します。
どんな2週間になるやら、準備期間はあと3週間。
何が大切か。何が問題か。何を見落としているのか。今何が必要か。様々な「なぜ」をもっていけるよう、日々精進します。
それが僕の人生。理想と現実はある。そこにギャップはある。しかし、そのギャップすら、僕達が作っているんだとしたら、その事を理解して行く人生にして行こうと再び確信した今日1日でした。
【この日記に対するご意見・ご感想はこちらへ】
もし何か感じるものや、感想をお持ちになられたら以下までメール下さい♪
kk-post@lime.plala.or.jp
子供という在り方
2001年5月7日 こんにちは。お久しぶりです。
更新が遅れ気味ですね。でも日々学んでおりますので、気長にお付き合いくださいね♪
なんだかんだと1000ヒットを超えていますね(^^)
見てくれている人がいるんですね。ありがとうございます♪今後ともヨロシクです。
さて、今日は「子供というありかた」について少し探ってみようかと思います。
「子供」と聴くとどんなことが思い浮かびますか?「かわいい」、「幼い」、「純粋」、「笑顔が素敵」、「居るだけで場が和む」というとても愛らしい存在という印象を持つ人いませんか?僕もそうです。
しかし、一方、子を持つ親の方々の中には、時として「むかつく」、「言うことを聞かない」、「いらいらさせる」存在としてみてしまうこともまた多いようです。
「子供」と「大人」…。「子供」は未熟な存在として教育され、社会に「適応」するように育てられる。だから子供に様々なことを教え、しつけをしているのではないでしょうか。
子供の頃から僕は、周囲の期待や、望むことを察して、それに答える行き方を選んできました。実際その方が都合が良いのです。「大人」にとって都合のよい人、「言うことを良く聞くまじめなよい子」としての経験をたくさんつんできました。
まぁそれはそれで良かったのですが、実は…結構我慢をしていたり、そんな自分に矛盾を感じていたりしてました。
「子供」をみていると、自由で、純粋で体一杯で自分を表現しています。公園に行くと、服なんかお構いなしに真っ黒になって遊んでいます。
そんな自由な存在なのです。また彼らはいろんなことを知っているんです。
「大人」が知らないことを…。
それがなんであるかは、ここでは言いません。
一人一人が感じるものですから。
ただ子供を本当によく見て、一つ一つの動作や、言葉、表現の中に、僕達大人が忘れていることを見せてくれます。それをどれだけ気づいて行けるかは、本当に僕達大人の一人一人の意識にかかっているんだと思います。
子ー親の関係ってそれだけ深いようです。僕にはまだ子供はいないので、実感としては分からないんですが、一緒に遊んでいるだけで、伝わってきます。彼らの笑顔が与えてくれるもの、彼らの自由さ、純粋さ…きっと僕らが忘れてしまったものに僕らは気づいても良いと思います。
「子供という在り方」、これひとつとっても大きな学びがありそうですよ。「子供と共に学ぶ」、月並みな表現ですが、これを本当に理解し、実践して行くのには、大人がもっと深く自分を知る必要がありそうです。
天使のイメージ画って子供に羽が生えてるじゃないですか。あれってスゴイ的を射ていますよね。子供は天使なんですね。大人を助けに来てくれたのかもしれないなぁと感じる今日この頃です。
みなさんは日々、身近な子供とどんな関わりを持っていますか?
更新が遅れ気味ですね。でも日々学んでおりますので、気長にお付き合いくださいね♪
なんだかんだと1000ヒットを超えていますね(^^)
見てくれている人がいるんですね。ありがとうございます♪今後ともヨロシクです。
さて、今日は「子供というありかた」について少し探ってみようかと思います。
「子供」と聴くとどんなことが思い浮かびますか?「かわいい」、「幼い」、「純粋」、「笑顔が素敵」、「居るだけで場が和む」というとても愛らしい存在という印象を持つ人いませんか?僕もそうです。
しかし、一方、子を持つ親の方々の中には、時として「むかつく」、「言うことを聞かない」、「いらいらさせる」存在としてみてしまうこともまた多いようです。
「子供」と「大人」…。「子供」は未熟な存在として教育され、社会に「適応」するように育てられる。だから子供に様々なことを教え、しつけをしているのではないでしょうか。
子供の頃から僕は、周囲の期待や、望むことを察して、それに答える行き方を選んできました。実際その方が都合が良いのです。「大人」にとって都合のよい人、「言うことを良く聞くまじめなよい子」としての経験をたくさんつんできました。
まぁそれはそれで良かったのですが、実は…結構我慢をしていたり、そんな自分に矛盾を感じていたりしてました。
「子供」をみていると、自由で、純粋で体一杯で自分を表現しています。公園に行くと、服なんかお構いなしに真っ黒になって遊んでいます。
そんな自由な存在なのです。また彼らはいろんなことを知っているんです。
「大人」が知らないことを…。
それがなんであるかは、ここでは言いません。
一人一人が感じるものですから。
ただ子供を本当によく見て、一つ一つの動作や、言葉、表現の中に、僕達大人が忘れていることを見せてくれます。それをどれだけ気づいて行けるかは、本当に僕達大人の一人一人の意識にかかっているんだと思います。
子ー親の関係ってそれだけ深いようです。僕にはまだ子供はいないので、実感としては分からないんですが、一緒に遊んでいるだけで、伝わってきます。彼らの笑顔が与えてくれるもの、彼らの自由さ、純粋さ…きっと僕らが忘れてしまったものに僕らは気づいても良いと思います。
「子供という在り方」、これひとつとっても大きな学びがありそうですよ。「子供と共に学ぶ」、月並みな表現ですが、これを本当に理解し、実践して行くのには、大人がもっと深く自分を知る必要がありそうです。
天使のイメージ画って子供に羽が生えてるじゃないですか。あれってスゴイ的を射ていますよね。子供は天使なんですね。大人を助けに来てくれたのかもしれないなぁと感じる今日この頃です。
みなさんは日々、身近な子供とどんな関わりを持っていますか?
自然の神秘
2001年4月30日 雨ですね。4月は降水量が少なかったみたいですね。テレビで石原良純氏がいっておりました。
さて、今日、NHKで自然の不思議という感じの番組を見ました。南極のことを扱っていて、クジラの事や、ペンギンの事、南極の氷の不思議なんかを取り上げていたのですが、とても心にジーンとくるものがありました。
それはですね、自然ってなんにもないようで全部あるんだなぁって事です。
南極には畑や、緑はありません。あるのは水、氷、陸地、空気、風、空、生き物、それくらいです。しかも人から見れば、滅茶苦茶寒いです。
その南極に、とても大きなクジラが沢山生きていたり、ペンギンが群れをなしていたりと、生き物が生活できるシステムがあるんですね。クジラが食べる食べ物の量は、1,5トン/年だそうです。人が2年かけて食べる量だそうです。
そんなに沢山食べる生き物がいて、別に畑や森があって食べ物を作るわけでもないのにどうして生活して行けるんだろうと思いませんでした?
でもしっかり生態系はあるんですね。名前忘れましたけど、ちっちゃい魚が1000兆匹はぐぐむ海がそこにはあったんです。しかも氷がその魚を成長させるための植物プランクトンを発生させる事が出来るといっていました。
自然には、一見何も無いように見えて、全てを生み出す神秘があるんだなぁと子供心に返って感動してしまいました。そこで生きるペンギンたちも、自然の摂理の中で、しっかり生きています。
生きるってことをペンギン達に教わった気がします。子が生まれ、育てるのに自分のおなかにためた食料を与えつづけ、4ヶ月も我慢する父親。その間に海で食料を胃に溜め込んでくる母。うーん、自然のシステムはスゴイ。そこには貪欲さや、虚栄心、傲慢さが無いんですね。
人にはそれがあって、あるからこそ、自然のすごさがわかって行けるのでしょうね。
「自然と共に生きる」、どこかで聞いたような言葉ですが、自然に生かされている事を近頃忘れちゃっている気がします。色んなレベルで。
人類の歴史は、きっと知能を持って自然を利用していた人間が、急に科学技術の進歩によって自然をコントロールしようとしてきた流れだったのではないかなーと勝手に想像しています。
そしてこれから、その自然のコントロールの危うさに気づいて、自然との対話…、つまり自然に学び、生かされていることを知っていく時代になっていけば良いなと思います。
「天空の城 ラピュタ」でも言っていました。
「人は地面を離れて生きてはいけない」というようなことを。技術のみでは人は生きてはいけない。土地、地球、自然を無視しては生きてはいけないのだと。
地球は回る,僕らを乗せて…。
回っている地球に僕達は乗っている。
あらゆる技術、知識がその回転(自然の流れ)に、「乗る為のもの」でありますように。
さて、今日、NHKで自然の不思議という感じの番組を見ました。南極のことを扱っていて、クジラの事や、ペンギンの事、南極の氷の不思議なんかを取り上げていたのですが、とても心にジーンとくるものがありました。
それはですね、自然ってなんにもないようで全部あるんだなぁって事です。
南極には畑や、緑はありません。あるのは水、氷、陸地、空気、風、空、生き物、それくらいです。しかも人から見れば、滅茶苦茶寒いです。
その南極に、とても大きなクジラが沢山生きていたり、ペンギンが群れをなしていたりと、生き物が生活できるシステムがあるんですね。クジラが食べる食べ物の量は、1,5トン/年だそうです。人が2年かけて食べる量だそうです。
そんなに沢山食べる生き物がいて、別に畑や森があって食べ物を作るわけでもないのにどうして生活して行けるんだろうと思いませんでした?
でもしっかり生態系はあるんですね。名前忘れましたけど、ちっちゃい魚が1000兆匹はぐぐむ海がそこにはあったんです。しかも氷がその魚を成長させるための植物プランクトンを発生させる事が出来るといっていました。
自然には、一見何も無いように見えて、全てを生み出す神秘があるんだなぁと子供心に返って感動してしまいました。そこで生きるペンギンたちも、自然の摂理の中で、しっかり生きています。
生きるってことをペンギン達に教わった気がします。子が生まれ、育てるのに自分のおなかにためた食料を与えつづけ、4ヶ月も我慢する父親。その間に海で食料を胃に溜め込んでくる母。うーん、自然のシステムはスゴイ。そこには貪欲さや、虚栄心、傲慢さが無いんですね。
人にはそれがあって、あるからこそ、自然のすごさがわかって行けるのでしょうね。
「自然と共に生きる」、どこかで聞いたような言葉ですが、自然に生かされている事を近頃忘れちゃっている気がします。色んなレベルで。
人類の歴史は、きっと知能を持って自然を利用していた人間が、急に科学技術の進歩によって自然をコントロールしようとしてきた流れだったのではないかなーと勝手に想像しています。
そしてこれから、その自然のコントロールの危うさに気づいて、自然との対話…、つまり自然に学び、生かされていることを知っていく時代になっていけば良いなと思います。
「天空の城 ラピュタ」でも言っていました。
「人は地面を離れて生きてはいけない」というようなことを。技術のみでは人は生きてはいけない。土地、地球、自然を無視しては生きてはいけないのだと。
地球は回る,僕らを乗せて…。
回っている地球に僕達は乗っている。
あらゆる技術、知識がその回転(自然の流れ)に、「乗る為のもの」でありますように。
生みの苦しみ
2001年4月24日 久々に書きます。しばらく更新できなくて申し訳ないです。結構一つ一つの文が長いので読むほうも大変かと思いますが、書くほうも色々ありまして、大変です。
すっと出てくるときもあれば、なかなか出ない時もある。思いつきで書くので余計に…。
でもなんとか続けて行きます。
自分の問いに向き合って行く為に。
今日は軽めで行きます。
「世界を変えるにはどうしたらいいでしょう?」
さて、どうでしょう?
ちょっと前に見た「Pay it forward」という映画で確か登場した言葉です。
世界を変えるには…
政治家になって政治を動かす
国際舞台に羽ばたく活動家になる
革命を起こす
市民運動から始める
宗教を広める などなど
色々あるのではないでしょうか?
映画の中では、「一人が3人の人に良いことをする」というものだったと思います。
1人が3人に良い行いをすると、どんどん増えて行きます。悪く言えばねずみ講の方式ですね。
しかし、見かえりは望まない事。
トップダウンかボトムアップかという話にもなりそうですが、「世界を変える」という事に、興味をもった一人の少年は、まず自分が始めました。
3人の人によいことをすると。助けるんだと。
一人一人が変わる事、それは理想論かもしれない。
しかし、一人一人が変われるかもしれない事、これは現実です。
そして、一人一人に変化の可能性があるにも関わらず、変化していないもの事実です。
世界を変える…どう変えるんでしょう?
その問いに答えを求めないにせよ、
変化、違いを生み出すには、何が出きるのでしょう?
そんな事を少し見つめてみようかと思います。
みなさんどうですか?
すっと出てくるときもあれば、なかなか出ない時もある。思いつきで書くので余計に…。
でもなんとか続けて行きます。
自分の問いに向き合って行く為に。
今日は軽めで行きます。
「世界を変えるにはどうしたらいいでしょう?」
さて、どうでしょう?
ちょっと前に見た「Pay it forward」という映画で確か登場した言葉です。
世界を変えるには…
政治家になって政治を動かす
国際舞台に羽ばたく活動家になる
革命を起こす
市民運動から始める
宗教を広める などなど
色々あるのではないでしょうか?
映画の中では、「一人が3人の人に良いことをする」というものだったと思います。
1人が3人に良い行いをすると、どんどん増えて行きます。悪く言えばねずみ講の方式ですね。
しかし、見かえりは望まない事。
トップダウンかボトムアップかという話にもなりそうですが、「世界を変える」という事に、興味をもった一人の少年は、まず自分が始めました。
3人の人によいことをすると。助けるんだと。
一人一人が変わる事、それは理想論かもしれない。
しかし、一人一人が変われるかもしれない事、これは現実です。
そして、一人一人に変化の可能性があるにも関わらず、変化していないもの事実です。
世界を変える…どう変えるんでしょう?
その問いに答えを求めないにせよ、
変化、違いを生み出すには、何が出きるのでしょう?
そんな事を少し見つめてみようかと思います。
みなさんどうですか?
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自立と依存
2001年4月19日 今日は久しぶりに学校から早く帰って来られました。いやー、日の在るうちに帰って来られるって人間的で良いですね。
今日は「自立」と「依存」について書きます。
このテーマは、日常生活にとても関わりの在る話ではないでしょうか。そして、世界の状況をみても、当てはまるような気がします。
近年の企業の「成果主義」や、「自己責任社会」などの言葉に代表されるように、「一人でやって行く」人間、つまり「自立」した人間を強く求めている社会のように思います。
あなたは、「自立」的な人ですか?「依存」的な人ですか?
答えは様々ではないでしょうか。オレなんかは、「依存」が多いですね。でも、お金のことや、立場によって「自立」的にもなろうとします。つまり、両方の側面がありますが、基本的に「依存」人間ではないかと思います。
人って、子供の頃は、どう見ても「依存」ですよね。母乳をもらったり、1日中抱っこしてもらったり、とにかく保護されなければ生きてはいけません。しかし、成長すると共に、「自立」を目指して行くようになるのではないでしょうか。
「自分のことは自分でやりなさい」、「早く一人前になりなさい」、「いつまでも人に頼るのはやめなさい」、と言われて来ているのではないでしょうか。
そう見ると、「依存」から「自立」へと人は向かって行くようですよね。簡単に見てみると。大人になるとは、「自立」することだと教えられてきたのだと言っても良いのではないかと思います。
確かに「自立」すればするほど、「立派な人」「一人前」「自分の力で生きている人」などと周りからは評価され、実際、経済の面でも成功しているのではないでしょうか。
雑誌などで、「自分の力でチャンスを掴め、仕事を待っている受身な人間はいらん!」という論を見かけます。
でも、「自立」は、「依存」を許しませんよね。甘えるなと厳しく自分を律して行くのではないでしょうか。たとえどんなに苦しくても、「責任」という大きなものを抱えて必死に耐える…。
共同体、つまり家族や、地域、仲間集団から、つながりを断つことと、「自立」すること、他人の世話になることと、「依存」って、同じようで違いません?
信頼、倫理観、相互作用から生まれる価値、生産性が、今の競争社会、能力社会では失われているのではないでしょうか。
確かに個人の能力が性格に給料という形で反映されるのは良い面もあるかもしれない。
しかし、自分の利益を追求するあまり、他人との情報共有や、チームとしての生産性を無視し、自分のことのみを基準に行動する事で失われるものって以外と大きいと思います。
「自立」も「依存」も、どちらが良い悪いではなく、どちらかを協調する事で、片方を否定することはとても危険な気がします。両方あるのが人間だからです。時には人に頼りたい時だってあって、自分の力を試してみたい時だって在る。それが人手はないですか?
では、「自立」 ○ 「依存」、
この○の部分にはどんなことがあるのでしょうか。「自立」ではなく「依存」でもないもの…。ここに大切な事がある気がします。
「協力」や、「協調」などの言葉は、○に近いことを表現する言葉なのかも知れません。
「共同」で何か「創造」することって出来ないのですかね。そこには「対立」が生じやすいですが。
では、その対立はなぜ生まれるのでしょう。
それは、何かをお互いに批判、否定するから…。
受け入れられないものがあるから…。ではなぜ受け入れられないのでしょう。受け入れられないってどういうことなんでしょう。「何を」受け入れられないのでしょう。
「自立」、「依存」そして○…。
私達はそのことを本当に理解しているのでしょうか…。
今日は「自立」と「依存」について書きます。
このテーマは、日常生活にとても関わりの在る話ではないでしょうか。そして、世界の状況をみても、当てはまるような気がします。
近年の企業の「成果主義」や、「自己責任社会」などの言葉に代表されるように、「一人でやって行く」人間、つまり「自立」した人間を強く求めている社会のように思います。
あなたは、「自立」的な人ですか?「依存」的な人ですか?
答えは様々ではないでしょうか。オレなんかは、「依存」が多いですね。でも、お金のことや、立場によって「自立」的にもなろうとします。つまり、両方の側面がありますが、基本的に「依存」人間ではないかと思います。
人って、子供の頃は、どう見ても「依存」ですよね。母乳をもらったり、1日中抱っこしてもらったり、とにかく保護されなければ生きてはいけません。しかし、成長すると共に、「自立」を目指して行くようになるのではないでしょうか。
「自分のことは自分でやりなさい」、「早く一人前になりなさい」、「いつまでも人に頼るのはやめなさい」、と言われて来ているのではないでしょうか。
そう見ると、「依存」から「自立」へと人は向かって行くようですよね。簡単に見てみると。大人になるとは、「自立」することだと教えられてきたのだと言っても良いのではないかと思います。
確かに「自立」すればするほど、「立派な人」「一人前」「自分の力で生きている人」などと周りからは評価され、実際、経済の面でも成功しているのではないでしょうか。
雑誌などで、「自分の力でチャンスを掴め、仕事を待っている受身な人間はいらん!」という論を見かけます。
でも、「自立」は、「依存」を許しませんよね。甘えるなと厳しく自分を律して行くのではないでしょうか。たとえどんなに苦しくても、「責任」という大きなものを抱えて必死に耐える…。
共同体、つまり家族や、地域、仲間集団から、つながりを断つことと、「自立」すること、他人の世話になることと、「依存」って、同じようで違いません?
信頼、倫理観、相互作用から生まれる価値、生産性が、今の競争社会、能力社会では失われているのではないでしょうか。
確かに個人の能力が性格に給料という形で反映されるのは良い面もあるかもしれない。
しかし、自分の利益を追求するあまり、他人との情報共有や、チームとしての生産性を無視し、自分のことのみを基準に行動する事で失われるものって以外と大きいと思います。
「自立」も「依存」も、どちらが良い悪いではなく、どちらかを協調する事で、片方を否定することはとても危険な気がします。両方あるのが人間だからです。時には人に頼りたい時だってあって、自分の力を試してみたい時だって在る。それが人手はないですか?
では、「自立」 ○ 「依存」、
この○の部分にはどんなことがあるのでしょうか。「自立」ではなく「依存」でもないもの…。ここに大切な事がある気がします。
「協力」や、「協調」などの言葉は、○に近いことを表現する言葉なのかも知れません。
「共同」で何か「創造」することって出来ないのですかね。そこには「対立」が生じやすいですが。
では、その対立はなぜ生まれるのでしょう。
それは、何かをお互いに批判、否定するから…。
受け入れられないものがあるから…。ではなぜ受け入れられないのでしょう。受け入れられないってどういうことなんでしょう。「何を」受け入れられないのでしょう。
「自立」、「依存」そして○…。
私達はそのことを本当に理解しているのでしょうか…。
いやいやご無沙汰してました。
2001年4月18日 日記書くのが久しぶりになってしまいました。
ここの所少しゆっくりパソコンに向かって思いを巡らせることが出来なかったんです。
きっと何か忙しくしていたのでしょうね。
さて、今日は「承認」という経験について書きたいと思います。
言葉では上手く書けませんが、人から承認されることって形式上はあっても、なかなか自分では体験できないものではないでしょうか。
承認:自分を認めること、知る事。
今日、とある環境で承認を受ける事ができました。
そして大きく自分を認め、また知ることが出来たような気がします。
普段は自分をなかなか認めることってできませんよね。頑張っている自分、人とかかわっている自分を本当に認め、受け入れる事が今まであまり出来なかった気がします。
まだまだ自分は…、そんなに大した人じゃないよ…といいながら、どこかで、自分を否定していたのかもしれません。俺はまだまだダメだと。
今日の承認の体験、詳しくは書きませんが、とても嬉しいものでした。
ううー今日は言葉にならない。またの機会に書きます。
ここの所少しゆっくりパソコンに向かって思いを巡らせることが出来なかったんです。
きっと何か忙しくしていたのでしょうね。
さて、今日は「承認」という経験について書きたいと思います。
言葉では上手く書けませんが、人から承認されることって形式上はあっても、なかなか自分では体験できないものではないでしょうか。
承認:自分を認めること、知る事。
今日、とある環境で承認を受ける事ができました。
そして大きく自分を認め、また知ることが出来たような気がします。
普段は自分をなかなか認めることってできませんよね。頑張っている自分、人とかかわっている自分を本当に認め、受け入れる事が今まであまり出来なかった気がします。
まだまだ自分は…、そんなに大した人じゃないよ…といいながら、どこかで、自分を否定していたのかもしれません。俺はまだまだダメだと。
今日の承認の体験、詳しくは書きませんが、とても嬉しいものでした。
ううー今日は言葉にならない。またの機会に書きます。
法則
2001年4月12日 もし全てのものに
ある一定の法則があるのだとしたら
人にはどんな法則があるのだろう
惑星は一定の軌道を描き
自らも回っている
だれにもとめることはできない
空から舞い降りる白い雪
その一つ一つのかけらの形
誰が作ったわけでもないもの
完璧な美を内に秘めている
自然はその法則により
水を生み 命を育て 循環している
誰が作ったわけでもない
完璧な循環を内に秘めている
世界には大きな法則があり
それに従って生きていく僕ら
生があれば死が訪れる
始まりがあれば終わりもある
全ては周っている
もし人が争いを招くことが
その完全なる法則ならば
もし今大きな流れの中で
終わりを迎えようとしているのなら
誰にも止めることはできない
法則が人間にとって
都合良く作られている保証はない
ならば人は何を「しよう」としているのだろう
何を変え、生み出そうとしているのだろう
全てが法則に従わなければならないのだとしたら
現実を変えようとすることすらも
法則の一つの運動にすぎないのだとしたら
人は耐えられるのだろうか
その流れに見をまかせることは
できるのだろうか
なんで人はいるんだろうか
なぜ考えることを
この法則は生み出したんだろう
全てが法則であると
もしそのことを本当に知ってしまったならば
人は…
ある一定の法則があるのだとしたら
人にはどんな法則があるのだろう
惑星は一定の軌道を描き
自らも回っている
だれにもとめることはできない
空から舞い降りる白い雪
その一つ一つのかけらの形
誰が作ったわけでもないもの
完璧な美を内に秘めている
自然はその法則により
水を生み 命を育て 循環している
誰が作ったわけでもない
完璧な循環を内に秘めている
世界には大きな法則があり
それに従って生きていく僕ら
生があれば死が訪れる
始まりがあれば終わりもある
全ては周っている
もし人が争いを招くことが
その完全なる法則ならば
もし今大きな流れの中で
終わりを迎えようとしているのなら
誰にも止めることはできない
法則が人間にとって
都合良く作られている保証はない
ならば人は何を「しよう」としているのだろう
何を変え、生み出そうとしているのだろう
全てが法則に従わなければならないのだとしたら
現実を変えようとすることすらも
法則の一つの運動にすぎないのだとしたら
人は耐えられるのだろうか
その流れに見をまかせることは
できるのだろうか
なんで人はいるんだろうか
なぜ考えることを
この法則は生み出したんだろう
全てが法則であると
もしそのことを本当に知ってしまったならば
人は…
ゼミ発進!
2001年4月11日 昨日分の日記を書いている。
昨日はゼミの1発目、ガイダンスを張り切って済ませる。そしてそのあといつもの「魚民」へ。
まだ初回だというのに、呑みに付き合ってくれる3年達、そして待ってましたOBOGの登場と、濃いー呑み会をしていたら、終電乗れず。
泥酔して爆沈しているたけっちを送ってそのまま映像の世紀を素晴らしい解説付きでみる。
そして今日は2限。もはや体力は限界。外は快晴。
しかも講義は「地誌学」。よーわからん、眠い!
そんなこんなで昨日から今日へ至る。
最近自分の不勉強さにううーと思い、新たに知的分野への道を仲間に照らしてもらいながら、動き始めている。何かが。
昨日はゼミの1発目、ガイダンスを張り切って済ませる。そしてそのあといつもの「魚民」へ。
まだ初回だというのに、呑みに付き合ってくれる3年達、そして待ってましたOBOGの登場と、濃いー呑み会をしていたら、終電乗れず。
泥酔して爆沈しているたけっちを送ってそのまま映像の世紀を素晴らしい解説付きでみる。
そして今日は2限。もはや体力は限界。外は快晴。
しかも講義は「地誌学」。よーわからん、眠い!
そんなこんなで昨日から今日へ至る。
最近自分の不勉強さにううーと思い、新たに知的分野への道を仲間に照らしてもらいながら、動き始めている。何かが。
未だ届かぬ声。
2001年4月10日こんばんは。
ふぃりっくすさんお気に入り登録ありがとうございます♪
はー、授業が始まりました。
健康診断も受けてきたし、とりあえず順調な滑り出し。
今日ですね、学校の映像資料室で「映像の世紀ーNHKスペシャル」の第1集を見ました。
1900年から1914年までの映像の記録です。それを見ていて、まぁ映像が生まれた当時の様子や、それに驚き、またその可能性に恐れる人やさまざまな事件を真近で見ることができるようになった・・・というありきたりな部分は置いといて、もっと注目したいこところがありました。
ちょうどロシアの「血の日曜日事件」や「ロシア革命」を扱っている所で、「日露戦争」のことも取り上げられていました。
そこでトルストイが、「思い出せ」という論文で、戦争を批判し、宗教的アナーキズムや、愛の法則の重要性を説いていました。ここは、キリスト教的な信仰が入るので、是非がわかれるでしょうが、大切なことをいっていました。
「我々には、他人に対して責任を持つ必要がある。しかし、また自分の精神に対する責任を持つ必要もあるのだ」という感じの事を言っていました。
じーん・・・、そうだよなぁ。自分の精神、つまり何を考え、何を信じ、なにをするのかといったことを決めるのは自分自身。そのもっともの原動力って自分の精神なんですよね。
「自分の行動には責任をもて」とよく言われますが、精神まで責任をもてとはあまりいいませんよね。とても意味深いことだと感じました。
うちのゼミでも内面性の豊かさがよく出てきます。
しかし、まだまだ「内面の豊かさ」を理解できていないのではないかと思います。
トルストイの言った「愛の法則」、彼がガンジーの無抵抗主義をその法則の現われとして賛美したこと。これは、宗教を信じる、信じない、民族の違いを超えて、少し自分に問い掛けてみてもいいことではないでしょうか。
「悪に対して抵抗するな」、これはトルストイが自らに与えた戒めの一つのようです。これを自分は果たして理解し、実践できるのだろうか?悪を受け入れる(許す)事ができるのかなぁと思うと、ちょっと抵抗してしまう自分もいますね。
そして、「未だ届かぬ声」とは、平和を希求しながら、平和の為にと争いを続ける私たちが未だに聴こうとしていない声のこと。誰の声でもない。ただ、人間が恐らくみんな持っているであろう「平和でいたい」というシンプルな願い、その声です。
ふぃりっくすさんお気に入り登録ありがとうございます♪
はー、授業が始まりました。
健康診断も受けてきたし、とりあえず順調な滑り出し。
今日ですね、学校の映像資料室で「映像の世紀ーNHKスペシャル」の第1集を見ました。
1900年から1914年までの映像の記録です。それを見ていて、まぁ映像が生まれた当時の様子や、それに驚き、またその可能性に恐れる人やさまざまな事件を真近で見ることができるようになった・・・というありきたりな部分は置いといて、もっと注目したいこところがありました。
ちょうどロシアの「血の日曜日事件」や「ロシア革命」を扱っている所で、「日露戦争」のことも取り上げられていました。
そこでトルストイが、「思い出せ」という論文で、戦争を批判し、宗教的アナーキズムや、愛の法則の重要性を説いていました。ここは、キリスト教的な信仰が入るので、是非がわかれるでしょうが、大切なことをいっていました。
「我々には、他人に対して責任を持つ必要がある。しかし、また自分の精神に対する責任を持つ必要もあるのだ」という感じの事を言っていました。
じーん・・・、そうだよなぁ。自分の精神、つまり何を考え、何を信じ、なにをするのかといったことを決めるのは自分自身。そのもっともの原動力って自分の精神なんですよね。
「自分の行動には責任をもて」とよく言われますが、精神まで責任をもてとはあまりいいませんよね。とても意味深いことだと感じました。
うちのゼミでも内面性の豊かさがよく出てきます。
しかし、まだまだ「内面の豊かさ」を理解できていないのではないかと思います。
トルストイの言った「愛の法則」、彼がガンジーの無抵抗主義をその法則の現われとして賛美したこと。これは、宗教を信じる、信じない、民族の違いを超えて、少し自分に問い掛けてみてもいいことではないでしょうか。
「悪に対して抵抗するな」、これはトルストイが自らに与えた戒めの一つのようです。これを自分は果たして理解し、実践できるのだろうか?悪を受け入れる(許す)事ができるのかなぁと思うと、ちょっと抵抗してしまう自分もいますね。
そして、「未だ届かぬ声」とは、平和を希求しながら、平和の為にと争いを続ける私たちが未だに聴こうとしていない声のこと。誰の声でもない。ただ、人間が恐らくみんな持っているであろう「平和でいたい」というシンプルな願い、その声です。
まず動く
2001年4月9日 こんにちは。けいたです。
今日も暖かい日でしたねー。うちの愛犬”らっきー”と”ごん太”はお外で気持ちよさそうにふんふん鼻息を立てながら遊んでいました。
もう長袖要らないんですかね。そろそろ夏に向けて衣替えしていきたいですね。
さて、今日は「まず動く」というタイトルが浮かんできました。これは確か、中学3年生の時夏休みの読書感想文の宿題を書こうと文教堂へ言った時、「あっこれだ!」と思って手に取った本なんです。
著者は多湖輝。千葉大の名誉教授なんですねぇ。
はぁー、今その本をとってみてみると、表紙に「まず動く―人生これから―」って書いてあります。ん?人生これからっておい俺その時中3だぜぇ。面白い本を手に取ったもんです。
その本は、「悩む前に動いてみろ」そんな感じの本ですかね。当時の俺は結構「えーいやってみちゃえ!」なんてノリで生徒会長やってみたり(まぁこれには当時気になっていた子が生徒会やるとか言っていたので、おっ!じゃあ俺も…っていうノリがあったのですが)、陸上部の部長やってみたりと何かと挑戦が楽しかった時代だったなぁという記憶があります。
きっとそんな自分のぼんやりとした気持ちを「まず動く」っていう言葉がしっくり来たんでしょうね。「そうそう!それだよ♪」てな気分になっていたんだろうなぁと想像がつきます。
「まず動く」事、何かを始める時、必ず不安になる。明日にしようかなと思ったり、続かない「だろう」から止めたりしますよね。でもやるんです。
不安でもいいんです。3日坊主でもいいんです。失敗したっていいんです。とにかくやってみるんです。そのことをひょっとしたら今の自分より、その時の自分のほうがよっぽど知っているのかもしれない。そんな事を思います。
年を取れば取るほど、学年が上がるほど、人生の「岐路」という場に近づくほど、「まず動く」ことが困難になってきている自分がいます。あれこれ考えます。「一番成功する」道を選ぼうとします。
しかし、一番成功する道がいつになっても見つかりません。それどころか、道は増える一方です。選択しが増える一方で何も決められません。それが今の状態なのかもしれない。
失敗が怖い。自信が無い。でもよく見つめると、俺ってそんな自信があったほうだったっけ?失敗しないほどスゴイ人だったか?と思うと、なーんだ、自信なんて無かったし、失敗もしたけど今までなんとかしてきたジャン♪ってふと楽になる。
そうなんだよね。大体考えるのが面倒になって「えーい、いっちまえ!」って色々な事をしてきた。異性と付き合ったり、色んな役職着いてみたり、対して勉強できないのに大学入るっていって浪人して新聞配達して早稲田はいっちゃったもんな。
そうそう、受験期になると必ず恋人が出来たりして、「行けないと分かっていても・・・」両立させるんだぁーーーとか言って、結構無理しちゃったりしてさ。辛い別れもあったなぁ。っていうか全部辛かったなぁ。でも楽しかったなぁ。
そうそう。行き当たりばったりって以外と悪く無い。それが自分をとても成長させてくれる経験だったんだもんね。それをすっかり忘れてた。
ちょっと「大人」しくなり過ぎた自分がいたのかもしれない。もともと「大人」しかったのに、更に「子供」っぽさを無くしてた。
「子供」は「小人」じゃないんです。「こども」は偉大なんです。なんでもやってみちゃいます。手当たり次第口に入れてみます。レストランでも走りまわります。全身で踊ります。そんな「こども」はスゴイです。恥かしいとか、失敗とかに戸惑いません。確かに幼稚といってしまえばそうですが、普通の大人から見て、すごい事やってのけているんですよね。
その原動力を俺は忘れてた。もっと自由に、大胆に、微笑みながら体一杯自分を表現していたあの頃の感じをもう一度思い出そう♪
流れる雲をじーっと見ていたあの頃を。テレビのヒーローものを見て、一生懸命ヒーローの真似をして遊んだあの頃の無邪気さを…。
人は大きくなっているけど、小さくなっていっているものなのかもしれませんね。
「まず動く」
中3の俺から届いたメッセージでした♪
今日も暖かい日でしたねー。うちの愛犬”らっきー”と”ごん太”はお外で気持ちよさそうにふんふん鼻息を立てながら遊んでいました。
もう長袖要らないんですかね。そろそろ夏に向けて衣替えしていきたいですね。
さて、今日は「まず動く」というタイトルが浮かんできました。これは確か、中学3年生の時夏休みの読書感想文の宿題を書こうと文教堂へ言った時、「あっこれだ!」と思って手に取った本なんです。
著者は多湖輝。千葉大の名誉教授なんですねぇ。
はぁー、今その本をとってみてみると、表紙に「まず動く―人生これから―」って書いてあります。ん?人生これからっておい俺その時中3だぜぇ。面白い本を手に取ったもんです。
その本は、「悩む前に動いてみろ」そんな感じの本ですかね。当時の俺は結構「えーいやってみちゃえ!」なんてノリで生徒会長やってみたり(まぁこれには当時気になっていた子が生徒会やるとか言っていたので、おっ!じゃあ俺も…っていうノリがあったのですが)、陸上部の部長やってみたりと何かと挑戦が楽しかった時代だったなぁという記憶があります。
きっとそんな自分のぼんやりとした気持ちを「まず動く」っていう言葉がしっくり来たんでしょうね。「そうそう!それだよ♪」てな気分になっていたんだろうなぁと想像がつきます。
「まず動く」事、何かを始める時、必ず不安になる。明日にしようかなと思ったり、続かない「だろう」から止めたりしますよね。でもやるんです。
不安でもいいんです。3日坊主でもいいんです。失敗したっていいんです。とにかくやってみるんです。そのことをひょっとしたら今の自分より、その時の自分のほうがよっぽど知っているのかもしれない。そんな事を思います。
年を取れば取るほど、学年が上がるほど、人生の「岐路」という場に近づくほど、「まず動く」ことが困難になってきている自分がいます。あれこれ考えます。「一番成功する」道を選ぼうとします。
しかし、一番成功する道がいつになっても見つかりません。それどころか、道は増える一方です。選択しが増える一方で何も決められません。それが今の状態なのかもしれない。
失敗が怖い。自信が無い。でもよく見つめると、俺ってそんな自信があったほうだったっけ?失敗しないほどスゴイ人だったか?と思うと、なーんだ、自信なんて無かったし、失敗もしたけど今までなんとかしてきたジャン♪ってふと楽になる。
そうなんだよね。大体考えるのが面倒になって「えーい、いっちまえ!」って色々な事をしてきた。異性と付き合ったり、色んな役職着いてみたり、対して勉強できないのに大学入るっていって浪人して新聞配達して早稲田はいっちゃったもんな。
そうそう、受験期になると必ず恋人が出来たりして、「行けないと分かっていても・・・」両立させるんだぁーーーとか言って、結構無理しちゃったりしてさ。辛い別れもあったなぁ。っていうか全部辛かったなぁ。でも楽しかったなぁ。
そうそう。行き当たりばったりって以外と悪く無い。それが自分をとても成長させてくれる経験だったんだもんね。それをすっかり忘れてた。
ちょっと「大人」しくなり過ぎた自分がいたのかもしれない。もともと「大人」しかったのに、更に「子供」っぽさを無くしてた。
「子供」は「小人」じゃないんです。「こども」は偉大なんです。なんでもやってみちゃいます。手当たり次第口に入れてみます。レストランでも走りまわります。全身で踊ります。そんな「こども」はスゴイです。恥かしいとか、失敗とかに戸惑いません。確かに幼稚といってしまえばそうですが、普通の大人から見て、すごい事やってのけているんですよね。
その原動力を俺は忘れてた。もっと自由に、大胆に、微笑みながら体一杯自分を表現していたあの頃の感じをもう一度思い出そう♪
流れる雲をじーっと見ていたあの頃を。テレビのヒーローものを見て、一生懸命ヒーローの真似をして遊んだあの頃の無邪気さを…。
人は大きくなっているけど、小さくなっていっているものなのかもしれませんね。
「まず動く」
中3の俺から届いたメッセージでした♪
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