マザーテレサ
2001年11月1日 信仰とは、どうして人をこんなにもひたむきに、そして健気に、また強くさせるのだろうか・・・
そんなことを感じさせてくれた人物がマザーテレサです。貧しい人たちに手を差し伸べ、自ら貧困のうちに身をおき、神の道具として、人々の救済に人生をかけた偉大な人物。
でも本人は決して「偉大」とか、「特別なこと」とは思っていないのでしょう。
彼女は言っています。
「私に自分にできるわずかのことを選んだだけ」と。また「Poor is beautiful.」とも言っています。
いやー、ちゃんと書きたいなぁこれ。
沖 守弘さんが書いた「マザーテレサ あふれる愛」という本が手元にあるんですけどね。
キリスト教信仰そのものを、何か越えた人間の救済への意思というものを、ひしひしと感じるんです。
人間として、どうしてここまで徹底して救済の道をあるけるんだろう。実際に行っていることは、スラム街の、困った人の話を聞いて、適切な援助をしているということ。言ってみればただそれだけなんですね。(偉大なことではありますが)
自分に置き換えてみます。
もし、道路で倒れている人がいたら、自分はどうするだろう。知らない人に、助けてください!と急に言われたらどう対応するだろう。本当に貧しい人々のことを救うという意思をもてるだろうか。まわりの人を救おうとおもえるだろうか。
自分のことを優先しないだろうか…
電車で席を譲るにも、ちょっとした勇気がいります。まして、泥酔して一人で倒れている人をみて、少し血がついているような人を見たら、「あぁー、関わりたくないなぁ」と正直思うんじゃないかな。
あとで「死にはしなそうだったからほっといた。本当にやばそうだったら何かしたかもしれないけどね」と本気で言ってしまいそうな自分がいます。
人に手を差し伸べること。それ自体とても勇気がいることなのでしょう。自分の中に、面倒臭さや、怖さ、困難さが生じれば生じるほど、それを超える勇気が要ります。
誰しもそういう行為に憧れるのでしょう。僕も例外なく。しかし、実際に行動できる人、している人はまれです。
人の助けなんて欲しくないとさえ思っている人もいるでしょう。
ただただ、瞬間瞬間に「私ができるわずかなことを選んだだけ」という援助を、行為を、人はどれだけ待っているか。そして自分からは拒んでいるか。
人間性ってこういう所の成熟を言うんじゃないかなぁと思います。道徳を振りかざす人より、さっと手を差し伸べる人、そっとそばにいられる人が勇気ある人なんだろうなぁ。
あなたは、誰か助けたい人はいますか?
助けを必要としている声が聞こえますか?
自分はどうですか?
自分のことで精一杯ですか?
深い問いになっていくことでしょう…
そんなことを感じさせてくれた人物がマザーテレサです。貧しい人たちに手を差し伸べ、自ら貧困のうちに身をおき、神の道具として、人々の救済に人生をかけた偉大な人物。
でも本人は決して「偉大」とか、「特別なこと」とは思っていないのでしょう。
彼女は言っています。
「私に自分にできるわずかのことを選んだだけ」と。また「Poor is beautiful.」とも言っています。
いやー、ちゃんと書きたいなぁこれ。
沖 守弘さんが書いた「マザーテレサ あふれる愛」という本が手元にあるんですけどね。
キリスト教信仰そのものを、何か越えた人間の救済への意思というものを、ひしひしと感じるんです。
人間として、どうしてここまで徹底して救済の道をあるけるんだろう。実際に行っていることは、スラム街の、困った人の話を聞いて、適切な援助をしているということ。言ってみればただそれだけなんですね。(偉大なことではありますが)
自分に置き換えてみます。
もし、道路で倒れている人がいたら、自分はどうするだろう。知らない人に、助けてください!と急に言われたらどう対応するだろう。本当に貧しい人々のことを救うという意思をもてるだろうか。まわりの人を救おうとおもえるだろうか。
自分のことを優先しないだろうか…
電車で席を譲るにも、ちょっとした勇気がいります。まして、泥酔して一人で倒れている人をみて、少し血がついているような人を見たら、「あぁー、関わりたくないなぁ」と正直思うんじゃないかな。
あとで「死にはしなそうだったからほっといた。本当にやばそうだったら何かしたかもしれないけどね」と本気で言ってしまいそうな自分がいます。
人に手を差し伸べること。それ自体とても勇気がいることなのでしょう。自分の中に、面倒臭さや、怖さ、困難さが生じれば生じるほど、それを超える勇気が要ります。
誰しもそういう行為に憧れるのでしょう。僕も例外なく。しかし、実際に行動できる人、している人はまれです。
人の助けなんて欲しくないとさえ思っている人もいるでしょう。
ただただ、瞬間瞬間に「私ができるわずかなことを選んだだけ」という援助を、行為を、人はどれだけ待っているか。そして自分からは拒んでいるか。
人間性ってこういう所の成熟を言うんじゃないかなぁと思います。道徳を振りかざす人より、さっと手を差し伸べる人、そっとそばにいられる人が勇気ある人なんだろうなぁ。
あなたは、誰か助けたい人はいますか?
助けを必要としている声が聞こえますか?
自分はどうですか?
自分のことで精一杯ですか?
深い問いになっていくことでしょう…
エミールを読む。
2001年10月30日 今日、後輩に昨日の日記のことを聞かれた。
あんまり普段「怒り」を表現しないので、ちょっと珍しい一面を見せていたらしい。
まぁ温和な人間の中にも、ちゃんと負の部分、暗の部分はあるんだね。人間は深いなぁ。
さて、
「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。・・・」
そう、偉大な思想家ルソーの「エミール」を最近読んでいる。
人の自然の成長を信じ、人為を排斥せよという論旨らしい。殊に教育は、何者かによって、子供を操作(言葉は悪いが)する営みがあるという事実は否めない。それが例え、「社会生活に順応させるため」であったとしても、「安定した将来を望むために」という理由であっても、少なからず人をある一定の方向に進めようという意図があることは誰もが認めるところではないだろうか。
世の中で生きていくために、僕たちが身に付けなければならないものとは何か。世代を超えて受け継がれてきた処世術のようなものは、裏を返せば現在の体制を、社会の既存の構造を、人々の意識を「安定」させるための処方箋なのかもしれない。
こうすればうまくいく!と書店のビジネス書コーナーには、哲学・How toもの、人生論など、びっちり埋まっている。
スポーツの世界にも、ルールというものがあり、選手はそのルールの下で戦術、理論を駆使し、勝利を目指す。ルールとは、あくまで人が作っているものである。スキーや、スケート競技では、使える道具によっては、小柄な選手に有利に働いたり、パワーよりも、技術に力点がおかれたりするという、人の対応の仕方が変わる。
ルールとは、あってしかるべきであり、安易に破るべきではない。しかし、ルールとは、一体何者なのだろうか。
自然の理、それ自体一定の法則を持ち、天体の動き、季節、生命の生死など、一定のルールがある。それは、人にも当然当てはまる。
人間以外の生物・植物はこの「自然の理」に従って生きている。弱肉強食というのも、食物連鎖と言う面からみれば、当然の摂理である。
では、人間に当てはめる。現在のアメリカ主導のグローバリゼーションのもとで、猛威を振るう市場経済、自由貿易推進を掲げる経済体制は、強者である。それに対し、弱者である開発国は、淘汰されてしかるべきであるという論理が成り立つのか。
先進国の経済を支えるため、その他大勢の人々は、人口を増やし、何とか生産を追いつかせようと必死に働く。人口問題が発生し、貧困格差、環境破壊など様々な問題を生じる。
だがそれも、人間のみを見た場合のことである。
地球規模でみれば、人類が増えれば、それだけの人類を生存させるだけの食料、資源が必要になる。
しかし、環境が破壊され、他の生物が今まで以上に豊かに生産される保証はない。巨大な、人間にはどうすることもできない自然の摂理の中で、私たちを育んでいる生物・植物は生きているのだ。
人間は「技術」の力をもって、自然に立ち向かおうとしているのか。全てを支配できると思っているのか。
いつから人類は、母である地球を守っていくことを忘れたのか。人類が誕生して、長い年月の中、後半のたった2000年で、「進歩」という栄光を得たかのように思っているが、実は地球レベルで見たら「衰退」の一途をたどっているのではないか。
子供が、公園の林を見て「昔の地球だね」とつぶやいていたことをはっきりと思い出した。
まだ彼らは知っているのである。地球の本来の姿を。
あまりに日常の生活と、地球レベルの認識がかけ離れてしまっている。ちょっとでも気を緩めると飲まれてしまう。
いつ人々の叡智が、生命の保存・維持に向くのか。または、地球もまた、生死の自然のプロセスをただ歩みつづけているだけなのだろうか・・・。
エミールとは遠ざかったが、こんな問題についても、そろそろ各論へ、具体的なアプローチへと進んでいかなくてはならない。
あんまり普段「怒り」を表現しないので、ちょっと珍しい一面を見せていたらしい。
まぁ温和な人間の中にも、ちゃんと負の部分、暗の部分はあるんだね。人間は深いなぁ。
さて、
「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。・・・」
そう、偉大な思想家ルソーの「エミール」を最近読んでいる。
人の自然の成長を信じ、人為を排斥せよという論旨らしい。殊に教育は、何者かによって、子供を操作(言葉は悪いが)する営みがあるという事実は否めない。それが例え、「社会生活に順応させるため」であったとしても、「安定した将来を望むために」という理由であっても、少なからず人をある一定の方向に進めようという意図があることは誰もが認めるところではないだろうか。
世の中で生きていくために、僕たちが身に付けなければならないものとは何か。世代を超えて受け継がれてきた処世術のようなものは、裏を返せば現在の体制を、社会の既存の構造を、人々の意識を「安定」させるための処方箋なのかもしれない。
こうすればうまくいく!と書店のビジネス書コーナーには、哲学・How toもの、人生論など、びっちり埋まっている。
スポーツの世界にも、ルールというものがあり、選手はそのルールの下で戦術、理論を駆使し、勝利を目指す。ルールとは、あくまで人が作っているものである。スキーや、スケート競技では、使える道具によっては、小柄な選手に有利に働いたり、パワーよりも、技術に力点がおかれたりするという、人の対応の仕方が変わる。
ルールとは、あってしかるべきであり、安易に破るべきではない。しかし、ルールとは、一体何者なのだろうか。
自然の理、それ自体一定の法則を持ち、天体の動き、季節、生命の生死など、一定のルールがある。それは、人にも当然当てはまる。
人間以外の生物・植物はこの「自然の理」に従って生きている。弱肉強食というのも、食物連鎖と言う面からみれば、当然の摂理である。
では、人間に当てはめる。現在のアメリカ主導のグローバリゼーションのもとで、猛威を振るう市場経済、自由貿易推進を掲げる経済体制は、強者である。それに対し、弱者である開発国は、淘汰されてしかるべきであるという論理が成り立つのか。
先進国の経済を支えるため、その他大勢の人々は、人口を増やし、何とか生産を追いつかせようと必死に働く。人口問題が発生し、貧困格差、環境破壊など様々な問題を生じる。
だがそれも、人間のみを見た場合のことである。
地球規模でみれば、人類が増えれば、それだけの人類を生存させるだけの食料、資源が必要になる。
しかし、環境が破壊され、他の生物が今まで以上に豊かに生産される保証はない。巨大な、人間にはどうすることもできない自然の摂理の中で、私たちを育んでいる生物・植物は生きているのだ。
人間は「技術」の力をもって、自然に立ち向かおうとしているのか。全てを支配できると思っているのか。
いつから人類は、母である地球を守っていくことを忘れたのか。人類が誕生して、長い年月の中、後半のたった2000年で、「進歩」という栄光を得たかのように思っているが、実は地球レベルで見たら「衰退」の一途をたどっているのではないか。
子供が、公園の林を見て「昔の地球だね」とつぶやいていたことをはっきりと思い出した。
まだ彼らは知っているのである。地球の本来の姿を。
あまりに日常の生活と、地球レベルの認識がかけ離れてしまっている。ちょっとでも気を緩めると飲まれてしまう。
いつ人々の叡智が、生命の保存・維持に向くのか。または、地球もまた、生死の自然のプロセスをただ歩みつづけているだけなのだろうか・・・。
エミールとは遠ざかったが、こんな問題についても、そろそろ各論へ、具体的なアプローチへと進んでいかなくてはならない。
怒り
2001年10月29日 昨日、とても怒りを覚えました。
家族内の言い争いだったんだけど、妙にイライラした。声のトーン、高ぶる感情、突き刺さるように飛んでくる怒りのエネルギー。
それに同化しまいと、布団でうーん、と寝ているが、だんだん同化してしまう。
自分にとどまることができない。巨大なエゴの渦の中に、自分が飲み込まれている。むしろ、自分のエゴが過敏に反応し、攻撃が始まる。
「うるさいぞ」「いつまでやってんだ」「一生やってろ」・・・。
仮にも家族である。しかし、容赦なく攻撃する声が自分の中に渦巻く。
気づくと、台所へ行き、言い合っている家族を横目に一杯の水を飲み、無言で立ち去る。
階段を上る最中、壁を数回蹴飛ばす。自室のドアを出来うる限りの制限を加え、力いっぱい閉める。
そのとき、ふと頭の中に、村上龍の「最後の家族」の光景が浮かんできた。引きこもりの秀樹の自室での苦悩、両親・家族への声にならない攻撃、とりとめもない自分との格闘・・・。
別に引きこもっているわけではないが、精神的な状態は、きっと似ているものは合ったのではないだろうか。人間には、時として怒りに振り回され、冷静さを欠くことがあるのだ。
病気ではない、診断もできない、そんな人間の感情、心理の複雑さ。しかし知らねばならない。
「こんなことを経験するために生まれてきたんじゃない!」と必死に叫ぶ自分。そんなたいした言い争いではない。本当に些細なことだったし、今日は普通に暮らしている。一般的にもまともな家族だ。
しかし、自分の中に、本当に触れたくないもの、
人の醜さ、怒り、欺き、嘘、争い、そういうものを拒否しつづけてきた自分の人生を思い知らされる。
向き合わねばならないのか、自分にもあるということを、ひとつであるということを。
何を恐れているのか・・・。答えはもう出ている。
家族内の言い争いだったんだけど、妙にイライラした。声のトーン、高ぶる感情、突き刺さるように飛んでくる怒りのエネルギー。
それに同化しまいと、布団でうーん、と寝ているが、だんだん同化してしまう。
自分にとどまることができない。巨大なエゴの渦の中に、自分が飲み込まれている。むしろ、自分のエゴが過敏に反応し、攻撃が始まる。
「うるさいぞ」「いつまでやってんだ」「一生やってろ」・・・。
仮にも家族である。しかし、容赦なく攻撃する声が自分の中に渦巻く。
気づくと、台所へ行き、言い合っている家族を横目に一杯の水を飲み、無言で立ち去る。
階段を上る最中、壁を数回蹴飛ばす。自室のドアを出来うる限りの制限を加え、力いっぱい閉める。
そのとき、ふと頭の中に、村上龍の「最後の家族」の光景が浮かんできた。引きこもりの秀樹の自室での苦悩、両親・家族への声にならない攻撃、とりとめもない自分との格闘・・・。
別に引きこもっているわけではないが、精神的な状態は、きっと似ているものは合ったのではないだろうか。人間には、時として怒りに振り回され、冷静さを欠くことがあるのだ。
病気ではない、診断もできない、そんな人間の感情、心理の複雑さ。しかし知らねばならない。
「こんなことを経験するために生まれてきたんじゃない!」と必死に叫ぶ自分。そんなたいした言い争いではない。本当に些細なことだったし、今日は普通に暮らしている。一般的にもまともな家族だ。
しかし、自分の中に、本当に触れたくないもの、
人の醜さ、怒り、欺き、嘘、争い、そういうものを拒否しつづけてきた自分の人生を思い知らされる。
向き合わねばならないのか、自分にもあるということを、ひとつであるということを。
何を恐れているのか・・・。答えはもう出ている。
醜さ・罪悪感について
2001年10月24日 現在午前一時です。うーん、久々の夜更かし。
来月使うグループワークの参加賞のメダルの試作品を作っていました。
Qoo(ドリンクのキャラクター)をモデルにしたメダルで、厚紙にフェルトを貼ったものと、ちょっとぬいぐるみ風に綿を入れて立体感を出したものを作りました。
僕結構、工作が好きなので、半分趣味で人形を作ってみました。明日の試作品公開でどんな反応になるのやら・・・。実際のところ、30個程度の量産を目指さなければならないため、簡単な作りの物になるんだろうなぁ。
さて、今日は、「醜さ」「罪悪感」を感じてみようかと思います。なんでわざわざそんな事をするのか。どうも自分は「醜い」「悪い」ものであるという観念が僕の中にはあるようです。
別に悪いことをしているわけではありませんよ(笑)。
いつしか、人にものを頼むことや、援助を受けることに困難さを感じている自分がいることに気づいたのです。
内なる会話っていうか、「悪いよなぁ」「相手が大変だよなぁ」とか、「迷惑だよなぁ」とか。
それは、よく言えば、「相手のことを考えて、謙虚に自分を抑えている」ということになるのかもしれない。
でも、本当に困っている時、助けを必要としているとき、相手にわかってほしいものがあるとき・・・
そんな時でさえ、自分の中の何かが、表現をとめるんです。
僕はよく子供の話を書いています。よく自分と照らし合わせてみるんです。子供のだだをこねるという行為、それ自体よい悪いは扱いません。ただ、子供は自由なんです。難しい常識(公衆の前では、おとなしくしている等)は、彼らに通用しません。わからないんです。ただ、目の前にあるものが欲しい。または、何かを欲している、それだけなんですね。
でも大人(妙な分別がついた後)は、何かと理由をつけて、行動を制限したり、抑えたり、そう振舞うことで大人であることを証明しているのではないでしょうか。ごく自然に、当たり前のように・・・。
いつから止めるようになったのでしょうか?いつから素直な気持ち、感情、感覚を捻じ曲げたり、抑えてみたり、暴力的な形で表すようになったのでしょう?
「あぁ、自分の気持ちをそのまま表現することって、いけないことだったんだぁ。」
そんなことを、中学三年の時、担任の先生から言われた言葉で思いました。
「あなた(当時生徒会長してた)は、自分が言うことの影響力が大きいんだから、勝手なことをいわないの!」
と言われたことをよく覚えています。他の友達はいいけど、俺はだめなんだぁって。漠然と受け止めてしまったんですね。
自分の感情や、欲望や、怒りや悲しみを、「醜いもの」として隠してきたんだなぁと電車にのっているときに改めて出てきました。役割や、立場や、他人の評価を気にしてたんだなぁと。(随分前から、こうしたことに対しての理解は深めてきたんですけどね・・・)
「醜さ・罪悪感」は、人が持っている本来の魅力を損なうようです。ある仲間内では、僕の印象は、「純粋・透明感」なんていう言葉を出してもらってます。子供ともエネルギーが会うようです。
知らないうちに放っている自分の空気と、自分が長い間に作り上げてきた自分への観念。
そこには大きなギャップがあるようです。自分がどんな経験の中で、どんな観念や思い込み、価値観を作り上げてきたのか、また、今持っているのか。そうしたことを探求していくことは、今後とても大切な学びになるのではないかと思います。
なぜなら、それらは必ず自分の子供に受け継いでいくことになるのだから。
僕らが理解し得なかったものを、次の世代に宿題として残すことになるのだから・・・。
来月使うグループワークの参加賞のメダルの試作品を作っていました。
Qoo(ドリンクのキャラクター)をモデルにしたメダルで、厚紙にフェルトを貼ったものと、ちょっとぬいぐるみ風に綿を入れて立体感を出したものを作りました。
僕結構、工作が好きなので、半分趣味で人形を作ってみました。明日の試作品公開でどんな反応になるのやら・・・。実際のところ、30個程度の量産を目指さなければならないため、簡単な作りの物になるんだろうなぁ。
さて、今日は、「醜さ」「罪悪感」を感じてみようかと思います。なんでわざわざそんな事をするのか。どうも自分は「醜い」「悪い」ものであるという観念が僕の中にはあるようです。
別に悪いことをしているわけではありませんよ(笑)。
いつしか、人にものを頼むことや、援助を受けることに困難さを感じている自分がいることに気づいたのです。
内なる会話っていうか、「悪いよなぁ」「相手が大変だよなぁ」とか、「迷惑だよなぁ」とか。
それは、よく言えば、「相手のことを考えて、謙虚に自分を抑えている」ということになるのかもしれない。
でも、本当に困っている時、助けを必要としているとき、相手にわかってほしいものがあるとき・・・
そんな時でさえ、自分の中の何かが、表現をとめるんです。
僕はよく子供の話を書いています。よく自分と照らし合わせてみるんです。子供のだだをこねるという行為、それ自体よい悪いは扱いません。ただ、子供は自由なんです。難しい常識(公衆の前では、おとなしくしている等)は、彼らに通用しません。わからないんです。ただ、目の前にあるものが欲しい。または、何かを欲している、それだけなんですね。
でも大人(妙な分別がついた後)は、何かと理由をつけて、行動を制限したり、抑えたり、そう振舞うことで大人であることを証明しているのではないでしょうか。ごく自然に、当たり前のように・・・。
いつから止めるようになったのでしょうか?いつから素直な気持ち、感情、感覚を捻じ曲げたり、抑えてみたり、暴力的な形で表すようになったのでしょう?
「あぁ、自分の気持ちをそのまま表現することって、いけないことだったんだぁ。」
そんなことを、中学三年の時、担任の先生から言われた言葉で思いました。
「あなた(当時生徒会長してた)は、自分が言うことの影響力が大きいんだから、勝手なことをいわないの!」
と言われたことをよく覚えています。他の友達はいいけど、俺はだめなんだぁって。漠然と受け止めてしまったんですね。
自分の感情や、欲望や、怒りや悲しみを、「醜いもの」として隠してきたんだなぁと電車にのっているときに改めて出てきました。役割や、立場や、他人の評価を気にしてたんだなぁと。(随分前から、こうしたことに対しての理解は深めてきたんですけどね・・・)
「醜さ・罪悪感」は、人が持っている本来の魅力を損なうようです。ある仲間内では、僕の印象は、「純粋・透明感」なんていう言葉を出してもらってます。子供ともエネルギーが会うようです。
知らないうちに放っている自分の空気と、自分が長い間に作り上げてきた自分への観念。
そこには大きなギャップがあるようです。自分がどんな経験の中で、どんな観念や思い込み、価値観を作り上げてきたのか、また、今持っているのか。そうしたことを探求していくことは、今後とても大切な学びになるのではないかと思います。
なぜなら、それらは必ず自分の子供に受け継いでいくことになるのだから。
僕らが理解し得なかったものを、次の世代に宿題として残すことになるのだから・・・。
子供の自己表現
2001年10月19日 今日も子供と一日ばっちり遊んできました。
いやー、元気元気。彼らの体力は大人の比ではない(笑)
子供の自己表現・・・、それはそれは自由でストレートですばらしいものです。大人はそれをわがままだとか、子供っぽいとか、未熟というけれど。
甘えたい!という欲求は、誰しも持っていて、どうも満たされるということがないらしい。
いつまでも遊びたい!といったり、どうしてもおもちゃがほしい!といってみたり。
でも、実際、それ以外のなにかを欲しているようです。欲求は果てしないものです。自分に何かが欠けていると思ったときに、きっと生じるのでしょう。
では何によって満たされるという経験、安心する経験をするのでしょうか?
それを母親という存在は特に学んでいく必要があるようです。
子供がなにを訴えていますか?
言葉の意味外のものをどれだけ察知していますか?
子供という存在それ自体を、どれだけ受容できますか?
そんなメッセージを今日は受けました。
明日も元気に遊んでくるぞ!
いやー、元気元気。彼らの体力は大人の比ではない(笑)
子供の自己表現・・・、それはそれは自由でストレートですばらしいものです。大人はそれをわがままだとか、子供っぽいとか、未熟というけれど。
甘えたい!という欲求は、誰しも持っていて、どうも満たされるということがないらしい。
いつまでも遊びたい!といったり、どうしてもおもちゃがほしい!といってみたり。
でも、実際、それ以外のなにかを欲しているようです。欲求は果てしないものです。自分に何かが欠けていると思ったときに、きっと生じるのでしょう。
では何によって満たされるという経験、安心する経験をするのでしょうか?
それを母親という存在は特に学んでいく必要があるようです。
子供がなにを訴えていますか?
言葉の意味外のものをどれだけ察知していますか?
子供という存在それ自体を、どれだけ受容できますか?
そんなメッセージを今日は受けました。
明日も元気に遊んでくるぞ!
親子いきいきキャンプ
2001年10月18日 今日は寒いですね。こんな日はお家でゆっくりと過ごしたいものです。
さて、みなさんは、最近地域の行事に参加したことがありますか?町内会や、地域主宰のお祭りなど。今日は、そんな地域というものについて書きたいと思います。
僕は夏休みに、大学で所属しているBBS会(big brothers and sisters movement)という、青少年の更正保護援助活動をしているサークルで、キャンプをしました。
その反省会に今日行って来ました。
まぁ詳しい内容は置いておいて、小学生のお母さんたちも、子育てに悩んでいるようです。そして、キャンプに来ていただいた親子の皆さんは、とても楽しかったという経験をされたようでした。
この活動には、日立みらい財団という企業の方のバックアップもあり、更正保護婦人会という人生の先輩方の援助も受け、総勢70名という大掛かりな人数でのキャンプでした。
中には、「問題のあるであろう親子の参加を促すのが難しい」とか、「人集めに苦労した」などの実施上の問題点がありました。
一方で、「子供の普段は見られない笑顔が見られた」「また参加してみたい」などの積極的に評価していただいた面もあり、実施責任者を始め様々な人の苦労がなんとか実った形になりました。
その中の企画のひとつに、「子育て支援」を掲げ、お母さん方の話し合いの場が持たれたようです。とても良い話し合いになったそうで、時間をもっとゆっくりとれればねというお話でした。
地域の人々のつながりが希薄になりつつあると言われて久しい今日、そんなキャンプというたった2日の経験で、少し気づきがあった気がします。
子供と親という関わりは、最も基本的なものなんですね。そしてともすれば一面的になりやすい。そこに第三者が加わると、子供も親も違った側面を見せる。つまり人間関係の広がりなんですね。
それが、身近に住んでいても、なかなか広げられないのが現実なのかなぁと思いました。下は4歳、上は00歳と、大きな家族なら当たり前の構成が、現在ではとても珍しいんですねぇ。おばあちゃんが子供を面倒見たり、年上のおにいちゃん、おねえちゃんが子供と遊ぶ。そんな中で、お母さんに余裕が生まれ、自分自身を、そして子供を振り返る機会がもてるのだなとも思います。
みんなで子供を囲んで、様々な年代の人が入り乱れながら生活する。遊びも、食事の準備も、掃除も洗濯も…。
生活のあらゆる面が機能化され、合理化され、日々の営みそれ自体が分からなくなっていませんか?
そんなことを本当に考えさせられた企画だったなと思います。
さて、みなさんは、最近地域の行事に参加したことがありますか?町内会や、地域主宰のお祭りなど。今日は、そんな地域というものについて書きたいと思います。
僕は夏休みに、大学で所属しているBBS会(big brothers and sisters movement)という、青少年の更正保護援助活動をしているサークルで、キャンプをしました。
その反省会に今日行って来ました。
まぁ詳しい内容は置いておいて、小学生のお母さんたちも、子育てに悩んでいるようです。そして、キャンプに来ていただいた親子の皆さんは、とても楽しかったという経験をされたようでした。
この活動には、日立みらい財団という企業の方のバックアップもあり、更正保護婦人会という人生の先輩方の援助も受け、総勢70名という大掛かりな人数でのキャンプでした。
中には、「問題のあるであろう親子の参加を促すのが難しい」とか、「人集めに苦労した」などの実施上の問題点がありました。
一方で、「子供の普段は見られない笑顔が見られた」「また参加してみたい」などの積極的に評価していただいた面もあり、実施責任者を始め様々な人の苦労がなんとか実った形になりました。
その中の企画のひとつに、「子育て支援」を掲げ、お母さん方の話し合いの場が持たれたようです。とても良い話し合いになったそうで、時間をもっとゆっくりとれればねというお話でした。
地域の人々のつながりが希薄になりつつあると言われて久しい今日、そんなキャンプというたった2日の経験で、少し気づきがあった気がします。
子供と親という関わりは、最も基本的なものなんですね。そしてともすれば一面的になりやすい。そこに第三者が加わると、子供も親も違った側面を見せる。つまり人間関係の広がりなんですね。
それが、身近に住んでいても、なかなか広げられないのが現実なのかなぁと思いました。下は4歳、上は00歳と、大きな家族なら当たり前の構成が、現在ではとても珍しいんですねぇ。おばあちゃんが子供を面倒見たり、年上のおにいちゃん、おねえちゃんが子供と遊ぶ。そんな中で、お母さんに余裕が生まれ、自分自身を、そして子供を振り返る機会がもてるのだなとも思います。
みんなで子供を囲んで、様々な年代の人が入り乱れながら生活する。遊びも、食事の準備も、掃除も洗濯も…。
生活のあらゆる面が機能化され、合理化され、日々の営みそれ自体が分からなくなっていませんか?
そんなことを本当に考えさせられた企画だったなと思います。
青春の日々
2001年10月4日 人生の中で、疾風怒濤、混沌、無限のエネルギーと様様な矛盾を抱えながら、ありあまるパワーを振り絞る、そんな青春の日々をふりかえってみた。、
大学4年ということで、卒論の作成を控え、つまりは大学生活、青春時代の集大成をここで形にしていくことは、殊のほか意義が深いように思う。
自分の今までの人生の方向性を見つめると、常に子供に関わることであったことは、以前から書いていることなのでここでは省略。
そんな中、就職活動といういわゆる人生のキーポイントを迎え、教職と企業への選択を迫られ、結局世の中の仕組みの中で生きていかざるを得ないことに、どうしても妥協できず、今にいたっている。
高校まで、学校という社会のルール、形の中でなに不自由なく生活してきたが、いざそのことに疑問をもち始めると、反動的に今度は矛盾した社会の中で生活するのがとてもいやになってしまったのかもしれない。もちろん、そんなわがままが通用するほど、世の中甘くはない。
しかし、どうしてもここで妥協は出来ない。
ここで「問う」ことを止めてしまったら、違和感を覚えていることを受け入れなければ自分にうそをつくことになる。
反抗期、抵抗、反発、そんな感覚が、10代に押さえ込んできたものが今まさに出てきているのだ。
子供と関わるという夢の中に、自分の行き方を認めさせることで、「自己正当化」をしようという密かな企みがあったことをここで認めよう。
そんなつまらない自己正当化のために、子供という可能性をつぶすのはやめることを、ここで誓おう。子供は大人の作った観念、ルールという檻の中で、そのルールに従うよう訓練される。「愛情」という名のもとに、その残酷さを隠している。時として虐待、殺人という現象として現れるように。
しかし、このことを止めることは、困難を極める。なぜなら、大人自身、今持っているものしか知らないからである。親から受け継いだ様様な価値観、生き方を背負い、精一杯生きているのである。
私たちもまた、社会に従うために様様な努力もし、成功もする。しかし、そのことが問題ではない。
私たち自身が学ぶことなんだと思う。
自分が回りの人たちに何をしてるのかを。言葉、知識をたてにするのではなく、内面から湧き出る感覚を、たとえそれが自分の期待するものでなくとも。
じっと見ていく必要がある。
なぜなら、自分の事は自分が知る以外ないのだから。そのことが、唯一私たちが持っている「責任」なのかもしれないのだから。
大学4年ということで、卒論の作成を控え、つまりは大学生活、青春時代の集大成をここで形にしていくことは、殊のほか意義が深いように思う。
自分の今までの人生の方向性を見つめると、常に子供に関わることであったことは、以前から書いていることなのでここでは省略。
そんな中、就職活動といういわゆる人生のキーポイントを迎え、教職と企業への選択を迫られ、結局世の中の仕組みの中で生きていかざるを得ないことに、どうしても妥協できず、今にいたっている。
高校まで、学校という社会のルール、形の中でなに不自由なく生活してきたが、いざそのことに疑問をもち始めると、反動的に今度は矛盾した社会の中で生活するのがとてもいやになってしまったのかもしれない。もちろん、そんなわがままが通用するほど、世の中甘くはない。
しかし、どうしてもここで妥協は出来ない。
ここで「問う」ことを止めてしまったら、違和感を覚えていることを受け入れなければ自分にうそをつくことになる。
反抗期、抵抗、反発、そんな感覚が、10代に押さえ込んできたものが今まさに出てきているのだ。
子供と関わるという夢の中に、自分の行き方を認めさせることで、「自己正当化」をしようという密かな企みがあったことをここで認めよう。
そんなつまらない自己正当化のために、子供という可能性をつぶすのはやめることを、ここで誓おう。子供は大人の作った観念、ルールという檻の中で、そのルールに従うよう訓練される。「愛情」という名のもとに、その残酷さを隠している。時として虐待、殺人という現象として現れるように。
しかし、このことを止めることは、困難を極める。なぜなら、大人自身、今持っているものしか知らないからである。親から受け継いだ様様な価値観、生き方を背負い、精一杯生きているのである。
私たちもまた、社会に従うために様様な努力もし、成功もする。しかし、そのことが問題ではない。
私たち自身が学ぶことなんだと思う。
自分が回りの人たちに何をしてるのかを。言葉、知識をたてにするのではなく、内面から湧き出る感覚を、たとえそれが自分の期待するものでなくとも。
じっと見ていく必要がある。
なぜなら、自分の事は自分が知る以外ないのだから。そのことが、唯一私たちが持っている「責任」なのかもしれないのだから。
学校が始まったぁ。
2001年10月2日 遂に大学生活も残すところ半年になりました。
いよいよ後期のスタートです。
今まで夏休み、時間を一杯に使ってバイト、合宿、シッターと取り組んでました。1日休みがなかなか取れないくらい動いていたんです。
それに後期の授業が加わると、更に一層日課が増えるわけで、「ううー、また体が…」と早くも疲労感が抜けない日々が始まりました。
学校が理由でない事が分かる分、ちと自分を見ないとだなぁ。
ここの所で、長年(3年)続けたコンビニのバイトを止めたので、バイトの時間がなくなった分、親の仕事を手伝っています。所謂内装の仕事なんですけどね。
来年、再来年と保育士試験を受けるに当たって、存分に仕事をさせてもらおうかと思っています。
最近テーマを決めて、日記も書いてなかったなぁと思うと、薄く日々を生きているのかなぁとちょっと反省(いかんいかん)をしてしまったりしています。
でもなんとなく、人生の流れはあるようです。
お金であったり、親子の関係であったり、友人間の関係であったり。
今日、大村はまさんの書いた「続 教えるということ」という本を買って読み始めました。
やはり教師は、生きていく上での力(読む力、書く力、考える力など)を生徒達が学べるように研究して行くという事が書かれていました。
うーん、「専門職としての教師」は親とは違う。
どうも自分が教師というものに違和感を覚え始めたのも、例えば幼児の場合の教育(幼稚園)と保育(保育園)を比べて、どうも保育というものになんらかの偏見、期待のような漠然としたものを観ているのかもしれない。
ある意味厳しさというものを誤解しているのかなぁ。
続きはまた今度…。
いよいよ後期のスタートです。
今まで夏休み、時間を一杯に使ってバイト、合宿、シッターと取り組んでました。1日休みがなかなか取れないくらい動いていたんです。
それに後期の授業が加わると、更に一層日課が増えるわけで、「ううー、また体が…」と早くも疲労感が抜けない日々が始まりました。
学校が理由でない事が分かる分、ちと自分を見ないとだなぁ。
ここの所で、長年(3年)続けたコンビニのバイトを止めたので、バイトの時間がなくなった分、親の仕事を手伝っています。所謂内装の仕事なんですけどね。
来年、再来年と保育士試験を受けるに当たって、存分に仕事をさせてもらおうかと思っています。
最近テーマを決めて、日記も書いてなかったなぁと思うと、薄く日々を生きているのかなぁとちょっと反省(いかんいかん)をしてしまったりしています。
でもなんとなく、人生の流れはあるようです。
お金であったり、親子の関係であったり、友人間の関係であったり。
今日、大村はまさんの書いた「続 教えるということ」という本を買って読み始めました。
やはり教師は、生きていく上での力(読む力、書く力、考える力など)を生徒達が学べるように研究して行くという事が書かれていました。
うーん、「専門職としての教師」は親とは違う。
どうも自分が教師というものに違和感を覚え始めたのも、例えば幼児の場合の教育(幼稚園)と保育(保育園)を比べて、どうも保育というものになんらかの偏見、期待のような漠然としたものを観ているのかもしれない。
ある意味厳しさというものを誤解しているのかなぁ。
続きはまた今度…。
じゃじゃん♪路線変更!!
2001年9月17日 またまた久しぶりだなぁ。
この夏は、最後の夏休みで気合いれてバイト、子供と遊ぶ事、ボランティアのキャンプと充実して過ごしています。
最近、ある事を決心しました。
「保育士」の資格を取ろうという事です。
あれ…?教師は???という疑問も自分の中にはあるんですが、なぜかしっくりこなくて止めました。
高校以来抱きつづけてきた、高校の先生への道を1時中断します。
なぜかって?
どうも小さい子供と縁があるんですよね、僕。ベビーシッターをしているという事もあるんですけど、子供という存在が、とても身近なんです。
そして、子供の偉大さ、純粋さ、たくましさを、彼らと遊びという関わりを通して知りました。また、子供を見ている自分のイライラやムカツキ、焦り、常識、醜さ…様々なものを感じます。
高校教師という教科の伝達を主に関わりより、遊びを通じた子供との関わりになぜか「びしっ!」とくるものを経験し、そんな自分を進ませてみようと思います。
男性保育士の道は、色々な面で厳しいけど、子供と向き合う、自分と向き合うという道には、変わらない。
ありがとう、「教師」という道。いらっしゃい、「保育士」という新しい道。
よぉーしはじめるぞぉ。
…あっ、俺ピアノ全然弾けない…どうしよう…。
この夏は、最後の夏休みで気合いれてバイト、子供と遊ぶ事、ボランティアのキャンプと充実して過ごしています。
最近、ある事を決心しました。
「保育士」の資格を取ろうという事です。
あれ…?教師は???という疑問も自分の中にはあるんですが、なぜかしっくりこなくて止めました。
高校以来抱きつづけてきた、高校の先生への道を1時中断します。
なぜかって?
どうも小さい子供と縁があるんですよね、僕。ベビーシッターをしているという事もあるんですけど、子供という存在が、とても身近なんです。
そして、子供の偉大さ、純粋さ、たくましさを、彼らと遊びという関わりを通して知りました。また、子供を見ている自分のイライラやムカツキ、焦り、常識、醜さ…様々なものを感じます。
高校教師という教科の伝達を主に関わりより、遊びを通じた子供との関わりになぜか「びしっ!」とくるものを経験し、そんな自分を進ませてみようと思います。
男性保育士の道は、色々な面で厳しいけど、子供と向き合う、自分と向き合うという道には、変わらない。
ありがとう、「教師」という道。いらっしゃい、「保育士」という新しい道。
よぉーしはじめるぞぉ。
…あっ、俺ピアノ全然弾けない…どうしよう…。
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脱力感の後で
2001年8月23日 気付けば1ヶ月近く更新を滞らせていたようですね。ここの所、本当に脱力感に浸っていたようです。つまり現実逃避…。全てがつまらなく、刺激が無く、ただただボーッと過ごす日々。そんな自分を許してきた日々。
ただもう限界みたい。無気力でいる事に飽きました。これを某「仁義無き就活」の友人に見られたらさぞかし「しょーがないなぁー、しっかりしろ!」って怒られそう。
さて、現実を否定しつづけた日々…。無力な自分から逃げつづけてきた日々。もう終わりにしよう。いつからか自分の中のエネルギーの中心から離れてしまっていたようです。新しいものを受け入れることへの拒絶感・恐怖感・抵抗感…。
うーん、今思えばちょっとやばかったなぁ。無気力人間へ両足突っ込む所だった。
デタラメながら、がむしゃらに何かに向かって行く事に妙な「監視」を行い、「体裁」「プライド」「自分本意の正当化」をしたたかに行いつづけてきた。うーん、不誠実。
そんな低エネルギー状態を体験していました。
放出する方向性を全く見失って、自分で気力を押さえこむ。外に向かうエネルギーが行き場を失うと、自分への攻撃になる。「なにをやっているんだ」と。そして自己否定は更に気力そのものを弱めて行くのかもしれない。「自分はダメな存在だと」。
なんであれ出るものでる。出しておけばいい。
さて、現実に戻るか…。
ただもう限界みたい。無気力でいる事に飽きました。これを某「仁義無き就活」の友人に見られたらさぞかし「しょーがないなぁー、しっかりしろ!」って怒られそう。
さて、現実を否定しつづけた日々…。無力な自分から逃げつづけてきた日々。もう終わりにしよう。いつからか自分の中のエネルギーの中心から離れてしまっていたようです。新しいものを受け入れることへの拒絶感・恐怖感・抵抗感…。
うーん、今思えばちょっとやばかったなぁ。無気力人間へ両足突っ込む所だった。
デタラメながら、がむしゃらに何かに向かって行く事に妙な「監視」を行い、「体裁」「プライド」「自分本意の正当化」をしたたかに行いつづけてきた。うーん、不誠実。
そんな低エネルギー状態を体験していました。
放出する方向性を全く見失って、自分で気力を押さえこむ。外に向かうエネルギーが行き場を失うと、自分への攻撃になる。「なにをやっているんだ」と。そして自己否定は更に気力そのものを弱めて行くのかもしれない。「自分はダメな存在だと」。
なんであれ出るものでる。出しておけばいい。
さて、現実に戻るか…。
「完璧さ」って…
2001年7月27日 昨日今日とわりと涼しい(?)気候で、ちょっと暑さにバテていた自分も救われた気分♪
朝早く起きてレポートを速攻で仕上げ、朝から児童相談センターにて子供とお勉強。
お昼を食べて今に至っています。今日で前期の試験が終わって、晴れて夏休みです。予定はほとんどありません。バイトします。勉強もします。遊びもします。とにかく開放感に溢れる夏休みを過ごそうっと。
今日は、「完璧さ」について。なんだかこんなんばっかりですね。オレの日記…。趣味や娯楽をもっと書け!って感じ。まぁいいか。
あのー、いつから「完璧さ」って人が感じるようになったんだろうって思いません?(思わない?)完璧さがあるのだとしたら、完璧じゃないものを知っているんですよね。うーん、じゃあ完璧を始めに知った人は、何を知ったんだろう。
オレは割と完璧主義な方です。なんでも完璧じゃないときが済まないくせに、結構いい加減で、中途半端だったりして。結構周りにもいるようです。
完璧になろうってすると、「完璧じゃない自分」っていうものを知っているんですよね。だって完璧だったらわざわざ完璧になろうとしなくて済む。
じゃあその完璧ってなんだろう。どんな人?少なくとも自分の嫌な部分が無くて、○○できる人みたいになって行く。人からみた完璧と、周りからみた完璧も違う。じゃあ一体何を追いかけているんだろう。
何を足りないと思っているのだろう。
足りないものは外から手に入るのだろうか。それとも…。
自然って完璧ですか?規則的で、計算できて、悩んだり、自己否定したりしない。ちゃんと朝はきて夜も来る。一年周期で星座は移ろい、月の満ち欠け、潮の充ち引き、みな一定(ほぼ)。
人って、自然の中に、完璧さを見出したのかなぁ。始めは自然を知るための科学も、いつしか人間にも完璧な法則があるはずだ!と人、社会に当てはめるようになって、それでも人には「意識や精神」っていうものがあるから、そう簡単にはいかなかったりして、予測不可能なことによく出会う。
動物って多分自分を完璧―完璧じゃないっていう図式では見ていないんだろうな。やっかいなものを生み出してしまったんだなぁと思う。
こうなろう、ああなろう、いつかはこうなってやるっていう意識は、時に大きなやる気と、パワーを燃えさせる。だけど、実は失敗、挫折と背中合わせだったりして。だからいつも緊張して、勝つか負けるかの勝負になる。勝ちつづけた人のみが、ある種の完璧さ、価値のある存在のように扱われる。
まぁそれだけではないんだけど。失敗も成功のもとっていうし。
リストラや、これからの構造改革が実現して、失業者が増発するっていうことが大きく論じられているけど、なにがあっても、人の尊さって変わらないでいて欲しいなぁ。お給料が低くても、評価が低くても、別に人間だめなわけじゃないんだから。
でもやっぱり失敗したり、挫折すると、自分の意味を、生きる気力を失わせてしまう自分もいるよなぁ。それこそ、自己肯定をいかに守って行くか、知って行くかが、これから必要なのかもしれないなぁ。
朝早く起きてレポートを速攻で仕上げ、朝から児童相談センターにて子供とお勉強。
お昼を食べて今に至っています。今日で前期の試験が終わって、晴れて夏休みです。予定はほとんどありません。バイトします。勉強もします。遊びもします。とにかく開放感に溢れる夏休みを過ごそうっと。
今日は、「完璧さ」について。なんだかこんなんばっかりですね。オレの日記…。趣味や娯楽をもっと書け!って感じ。まぁいいか。
あのー、いつから「完璧さ」って人が感じるようになったんだろうって思いません?(思わない?)完璧さがあるのだとしたら、完璧じゃないものを知っているんですよね。うーん、じゃあ完璧を始めに知った人は、何を知ったんだろう。
オレは割と完璧主義な方です。なんでも完璧じゃないときが済まないくせに、結構いい加減で、中途半端だったりして。結構周りにもいるようです。
完璧になろうってすると、「完璧じゃない自分」っていうものを知っているんですよね。だって完璧だったらわざわざ完璧になろうとしなくて済む。
じゃあその完璧ってなんだろう。どんな人?少なくとも自分の嫌な部分が無くて、○○できる人みたいになって行く。人からみた完璧と、周りからみた完璧も違う。じゃあ一体何を追いかけているんだろう。
何を足りないと思っているのだろう。
足りないものは外から手に入るのだろうか。それとも…。
自然って完璧ですか?規則的で、計算できて、悩んだり、自己否定したりしない。ちゃんと朝はきて夜も来る。一年周期で星座は移ろい、月の満ち欠け、潮の充ち引き、みな一定(ほぼ)。
人って、自然の中に、完璧さを見出したのかなぁ。始めは自然を知るための科学も、いつしか人間にも完璧な法則があるはずだ!と人、社会に当てはめるようになって、それでも人には「意識や精神」っていうものがあるから、そう簡単にはいかなかったりして、予測不可能なことによく出会う。
動物って多分自分を完璧―完璧じゃないっていう図式では見ていないんだろうな。やっかいなものを生み出してしまったんだなぁと思う。
こうなろう、ああなろう、いつかはこうなってやるっていう意識は、時に大きなやる気と、パワーを燃えさせる。だけど、実は失敗、挫折と背中合わせだったりして。だからいつも緊張して、勝つか負けるかの勝負になる。勝ちつづけた人のみが、ある種の完璧さ、価値のある存在のように扱われる。
まぁそれだけではないんだけど。失敗も成功のもとっていうし。
リストラや、これからの構造改革が実現して、失業者が増発するっていうことが大きく論じられているけど、なにがあっても、人の尊さって変わらないでいて欲しいなぁ。お給料が低くても、評価が低くても、別に人間だめなわけじゃないんだから。
でもやっぱり失敗したり、挫折すると、自分の意味を、生きる気力を失わせてしまう自分もいるよなぁ。それこそ、自己肯定をいかに守って行くか、知って行くかが、これから必要なのかもしれないなぁ。
表現について
2001年7月23日 表現…
笑う、泣く、怒る…
背伸びする、しゃがみ込む、丸くなる…
相手を見る、聴く、感じる…
どんな表現していますか?
今日はちょっと疲れていますか。ちょっと嬉しい感覚ですか?もの悲しい感じですか?
周りの人たちはどんな表現をしていますか?
眠そうですか?楽しそうですか?悩んでいますか?
いっつも表現しているようですよー。
どんなに隠しても「隠してるんだもーん!」ってしっかり出ちゃっているみたい。そうだよなぁ。コンビニバイトでも、自分の調子が悪いとなんか雑になったり、やたら手をぶつけたり色々している。
別に表現しようと思ってやっているわけじゃないのにさ。
子供って考えて表現してないんだろうな。
「こんなことしたら嫌われちゃうかな?」とか、「こうすることは自分にとって得なんだろうか」なんて考えない。
気に入っている人になら、ダダダーッて走って行って全身使って体当たり、そして「にこーッ」って笑ってくれる。もう抵抗できましぇん。笑
彼らはそのまんまで表現なんですねー。自然ですねー。何も隠し持ってないですねー。それに引き換え、なんと沢山のものを隠し持ってるんだろう、俺って。
隠し持っているから、恐る恐る近づいてしまう。緊張したり、格好つけてみたり、装ってみちゃったり…。なーんて自分知ってしまいました♪
役者さんが、自分の演技(振舞い)を、鏡をみたり、指先までしっかり意識を向けるように、台本を読んで役柄の気持ち、浮かび上がっているものを読むとろうとすることを、もし、「自分」をいう人を相手にやってみたら、面白いかも。
当たり前のように振舞っているから。無意識に。正しいと思いこんで…。
P.S なんだかんだと3000ヒットも超えてるじゃないですかー♪すごーい! 読んでくれている皆さんありがとうございます。
ありったけの感謝をみなさんに…
笑う、泣く、怒る…
背伸びする、しゃがみ込む、丸くなる…
相手を見る、聴く、感じる…
どんな表現していますか?
今日はちょっと疲れていますか。ちょっと嬉しい感覚ですか?もの悲しい感じですか?
周りの人たちはどんな表現をしていますか?
眠そうですか?楽しそうですか?悩んでいますか?
いっつも表現しているようですよー。
どんなに隠しても「隠してるんだもーん!」ってしっかり出ちゃっているみたい。そうだよなぁ。コンビニバイトでも、自分の調子が悪いとなんか雑になったり、やたら手をぶつけたり色々している。
別に表現しようと思ってやっているわけじゃないのにさ。
子供って考えて表現してないんだろうな。
「こんなことしたら嫌われちゃうかな?」とか、「こうすることは自分にとって得なんだろうか」なんて考えない。
気に入っている人になら、ダダダーッて走って行って全身使って体当たり、そして「にこーッ」って笑ってくれる。もう抵抗できましぇん。笑
彼らはそのまんまで表現なんですねー。自然ですねー。何も隠し持ってないですねー。それに引き換え、なんと沢山のものを隠し持ってるんだろう、俺って。
隠し持っているから、恐る恐る近づいてしまう。緊張したり、格好つけてみたり、装ってみちゃったり…。なーんて自分知ってしまいました♪
役者さんが、自分の演技(振舞い)を、鏡をみたり、指先までしっかり意識を向けるように、台本を読んで役柄の気持ち、浮かび上がっているものを読むとろうとすることを、もし、「自分」をいう人を相手にやってみたら、面白いかも。
当たり前のように振舞っているから。無意識に。正しいと思いこんで…。
P.S なんだかんだと3000ヒットも超えてるじゃないですかー♪すごーい! 読んでくれている皆さんありがとうございます。
ありったけの感謝をみなさんに…
続・現行の教育を超えるには
2001年7月18日 みなさんこんにちは。「前回夏風邪には気を付けましょうね。」と書いておきながら、まんまとクーラーで鼻かぜを患っております。トホホ…。
さて、前回の続きと参りましょうか。って前回の内容あんまり覚えていない…。いい加減だなぁ。
確か、教育の目的なんたらかんたらって書いていた気がする。
そうそう、あれを書いていて思ったこと、自分が今の現状から逃げているってこと。理想や、こうなったらいいよねって思うことで満足している自分も確かにいたんだなぁ。ごめんなさい。
やっぱり現実を見るには、否定していても仕方ないような気がしてきた。不満や憂いや、それをもつことは問題意識としてはいいけど、現実の世界に飛び込んでいくときに時に大きな壁になっていたりした。
現状を否定すること、つまり現実をそのまま見ないこと。違う何かを作ろうとするんだけど、結局現在に立脚点がないから、空想で終わりかねないこと。
具体的にいえば、ああでもないこうでもないと考えるのもいいけど、現実、つまり教師として教壇に立つ実際的な試験勉強や、深い授業の追求を怠っていては何も始まらないということ。
どうしても今の試験制度や、学校を認められなくて、みんなと同じに試験に受かるように勉強することが、何か自分でなくなるようで嫌だった。
そろそろ夢から覚める時なんだなぁ。
今まで見てきた夢を少し現実へ近づけていくための一歩をしっかり踏み出さなきゃ。試験は受かるためにやるもの。失敗したらとか、自分らしくないとかいうこととは実は違う。それは単なる投影でしかない。
現実を超えていくには、まず現実に入って、しっかり体験して、そこから新しい可能性を自分を通してなしていくことなんだなと少し整理がついたような気がする。
本当に現実を直視することって困難。
見たくないもの沢山ある。認めたくないもの沢山ある。だけどもう逃げない…。
まさに、「今この瞬間に」すべては始まっているんだなぁ。
さて、前回の続きと参りましょうか。って前回の内容あんまり覚えていない…。いい加減だなぁ。
確か、教育の目的なんたらかんたらって書いていた気がする。
そうそう、あれを書いていて思ったこと、自分が今の現状から逃げているってこと。理想や、こうなったらいいよねって思うことで満足している自分も確かにいたんだなぁ。ごめんなさい。
やっぱり現実を見るには、否定していても仕方ないような気がしてきた。不満や憂いや、それをもつことは問題意識としてはいいけど、現実の世界に飛び込んでいくときに時に大きな壁になっていたりした。
現状を否定すること、つまり現実をそのまま見ないこと。違う何かを作ろうとするんだけど、結局現在に立脚点がないから、空想で終わりかねないこと。
具体的にいえば、ああでもないこうでもないと考えるのもいいけど、現実、つまり教師として教壇に立つ実際的な試験勉強や、深い授業の追求を怠っていては何も始まらないということ。
どうしても今の試験制度や、学校を認められなくて、みんなと同じに試験に受かるように勉強することが、何か自分でなくなるようで嫌だった。
そろそろ夢から覚める時なんだなぁ。
今まで見てきた夢を少し現実へ近づけていくための一歩をしっかり踏み出さなきゃ。試験は受かるためにやるもの。失敗したらとか、自分らしくないとかいうこととは実は違う。それは単なる投影でしかない。
現実を超えていくには、まず現実に入って、しっかり体験して、そこから新しい可能性を自分を通してなしていくことなんだなと少し整理がついたような気がする。
本当に現実を直視することって困難。
見たくないもの沢山ある。認めたくないもの沢山ある。だけどもう逃げない…。
まさに、「今この瞬間に」すべては始まっているんだなぁ。
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現行の教育を超えるには…
2001年7月17日 みなさん夏バテしてませんか?
汗をかいて、クーラーのガンガン効いた部屋にいるのは健康に良くないですね。思いきって外に出て、たっぷり汗をかいてしまうと、以外と平気になるもんです。太陽の光を楽しみましょう♪
さて、今日は「現行の教育を越えるには…」ということについて考えてみたいと思います。しっかし、あんまり本も読んでいないような状態なので、「しっかりした」ものは書けませんけど。
どうも学校教育って疑問が絶えません。まぁなんでもそうだと思うんですけど、学校って勉強しに行く所ですよね?でもそれって誰が決めたんですか?
校則は拘束だし、そもそもなぜ勉強するの?っていう問いに答えられないですよね。どこか嘘臭い。
こんなに疑問をもってしまっている自分が教職を志すことにちょっと矛盾を感じているわけです。
昨日見たゼミの先生の論文で、イギリスの文学者の人が、教育には三つ目的がある。確か一つが生計を立てられる教育、2、3つ目がなんだっけな、人格なんかの成長かな、人間としての成長のようなことを書いていました。正確な記憶でなくて済みません。
今の学校って例えば生計を立てる教育って出来てますかね?まぁ資格取得のカリキュラムがある所ならまだしも、少なくとも普通科高校だったら「大学受験科」とでもした方がいいような気もする。
だって企業からすれば、入社してからみっちり社員教育すればいいんですよね。大学までの居教育にそんなに期待していない。しかも今の就職難(若干変化しているらしいが)で、即戦力といって、入社してすぐに使えるエキスパートが欲しいらしい。まぁ実際のところは経験してないので分からないんですけど。
だから、大学生のうちに「将来有望な資格をゲット!」という宣伝で様々な試験対策をあちこちでやっているんだろうなと思う。だってそこに行った方が明らかに実践的で、所謂生計を立てて行くための勉強になる。
では、大学の存在は?生計のためだったら、高校段階から情報処理なり、英検なり、法律の勉強なりの試験をパスするための授業を選択性にしてやって行った方が、よっぽど「受験に必要無いから」っていう理由で適当にこなす教科よりも為になるような気がしません?
でも一方で、人間性の成長っていう目には見えないものへの追及が、教育という言葉が適切かどうかは別として、重要なテーマになるのではないかと思います。さっきまで書いたことはあくまで合理主義的な考え方から出てくるものなんですけどね。
「心の教育」「ゆとり」「個性をはぐくむ」など、指導要領には載って様々な議論を生んでいます。
人の成長ってなんでしょうか。心が豊かになる、人格が優れている、個性って何?ゆとりって何?どうすればいいの?
きっとみんな迷っているんじゃないですかね。僕も含め。だってみんなそれぞれ「頑張って」いますよ。明らかに。自分を高めよう、もっとこんな自分になろう、夢をかなえようって。
でもなかなか上手くいかない。なんで上手くいかないかがわからない。
よくよく見てみると、今まで自分が生きてきた中でやってきたことって、人間関係の中でのコミュニケーションであったり、自分自身とのコミュニケーションであったり、自分のもっている幻想とのコミュニケーションだった気がする。
「これは良いのか悪いのか」、「人の迷惑になるかならないか」、「できるか、できないか」という様々な判断をして生きてきた。それしかしていないと言ってもいいかもしれない。
でもなかなかそうしている自分にも気づかなかった。いつも同じ所をグルグル周っているような気がしてた。抜け出したくても抜け出せなかったなぁ。
はまっている自分すら知らないから。
この話題、また次回書きます。ではでは。
夏風邪はつらいですよー。健康、自分の状態にはくれぐれも留意して行きましょう。
汗をかいて、クーラーのガンガン効いた部屋にいるのは健康に良くないですね。思いきって外に出て、たっぷり汗をかいてしまうと、以外と平気になるもんです。太陽の光を楽しみましょう♪
さて、今日は「現行の教育を越えるには…」ということについて考えてみたいと思います。しっかし、あんまり本も読んでいないような状態なので、「しっかりした」ものは書けませんけど。
どうも学校教育って疑問が絶えません。まぁなんでもそうだと思うんですけど、学校って勉強しに行く所ですよね?でもそれって誰が決めたんですか?
校則は拘束だし、そもそもなぜ勉強するの?っていう問いに答えられないですよね。どこか嘘臭い。
こんなに疑問をもってしまっている自分が教職を志すことにちょっと矛盾を感じているわけです。
昨日見たゼミの先生の論文で、イギリスの文学者の人が、教育には三つ目的がある。確か一つが生計を立てられる教育、2、3つ目がなんだっけな、人格なんかの成長かな、人間としての成長のようなことを書いていました。正確な記憶でなくて済みません。
今の学校って例えば生計を立てる教育って出来てますかね?まぁ資格取得のカリキュラムがある所ならまだしも、少なくとも普通科高校だったら「大学受験科」とでもした方がいいような気もする。
だって企業からすれば、入社してからみっちり社員教育すればいいんですよね。大学までの居教育にそんなに期待していない。しかも今の就職難(若干変化しているらしいが)で、即戦力といって、入社してすぐに使えるエキスパートが欲しいらしい。まぁ実際のところは経験してないので分からないんですけど。
だから、大学生のうちに「将来有望な資格をゲット!」という宣伝で様々な試験対策をあちこちでやっているんだろうなと思う。だってそこに行った方が明らかに実践的で、所謂生計を立てて行くための勉強になる。
では、大学の存在は?生計のためだったら、高校段階から情報処理なり、英検なり、法律の勉強なりの試験をパスするための授業を選択性にしてやって行った方が、よっぽど「受験に必要無いから」っていう理由で適当にこなす教科よりも為になるような気がしません?
でも一方で、人間性の成長っていう目には見えないものへの追及が、教育という言葉が適切かどうかは別として、重要なテーマになるのではないかと思います。さっきまで書いたことはあくまで合理主義的な考え方から出てくるものなんですけどね。
「心の教育」「ゆとり」「個性をはぐくむ」など、指導要領には載って様々な議論を生んでいます。
人の成長ってなんでしょうか。心が豊かになる、人格が優れている、個性って何?ゆとりって何?どうすればいいの?
きっとみんな迷っているんじゃないですかね。僕も含め。だってみんなそれぞれ「頑張って」いますよ。明らかに。自分を高めよう、もっとこんな自分になろう、夢をかなえようって。
でもなかなか上手くいかない。なんで上手くいかないかがわからない。
よくよく見てみると、今まで自分が生きてきた中でやってきたことって、人間関係の中でのコミュニケーションであったり、自分自身とのコミュニケーションであったり、自分のもっている幻想とのコミュニケーションだった気がする。
「これは良いのか悪いのか」、「人の迷惑になるかならないか」、「できるか、できないか」という様々な判断をして生きてきた。それしかしていないと言ってもいいかもしれない。
でもなかなかそうしている自分にも気づかなかった。いつも同じ所をグルグル周っているような気がしてた。抜け出したくても抜け出せなかったなぁ。
はまっている自分すら知らないから。
この話題、また次回書きます。ではでは。
夏風邪はつらいですよー。健康、自分の状態にはくれぐれも留意して行きましょう。
プール最高♪
2001年7月13日 朝から暑い。今年は異常だなぁ。梅雨も明けたなこりゃ。
今日は猛暑のため、さすがの朝寝坊男も8時に起床。なにしろ暑いし、学校は午後の4時からの一コマ(教職科目のバカヤロー…)。
さーてどうするかと考え、ひらめいたものが「プールへ行こう」ということだった。まだプール開きしていない所も多い中、地元の『大和田ファミリープール』へ一人で行く事に。
「まぁちょっと日焼けでもしてくるか」位の勢いでいったのです。平日の午前だけあって空いていて、流水プールと、幼児用の噴水プールしかないショボイ所だったんだけど、ゆっくり日に当たったりスィースィーと泳いでみたりと久々のゆったりした時間を過ごせました。
お蔭様で、顔を始め赤くなっています。ちょっと夏っぽい気分になれるかも。(暑さだけで十分夏だが)。
最近ちょっと運動不足もあったので、丁度良い運動・リフレッシュになりました。みなさんもどうです?地元のショボイプールでも結構楽しめます。
さてさて、授業か。論理的思考に耐えられなくなりつつある頭をしっかり使います。
今日は猛暑のため、さすがの朝寝坊男も8時に起床。なにしろ暑いし、学校は午後の4時からの一コマ(教職科目のバカヤロー…)。
さーてどうするかと考え、ひらめいたものが「プールへ行こう」ということだった。まだプール開きしていない所も多い中、地元の『大和田ファミリープール』へ一人で行く事に。
「まぁちょっと日焼けでもしてくるか」位の勢いでいったのです。平日の午前だけあって空いていて、流水プールと、幼児用の噴水プールしかないショボイ所だったんだけど、ゆっくり日に当たったりスィースィーと泳いでみたりと久々のゆったりした時間を過ごせました。
お蔭様で、顔を始め赤くなっています。ちょっと夏っぽい気分になれるかも。(暑さだけで十分夏だが)。
最近ちょっと運動不足もあったので、丁度良い運動・リフレッシュになりました。みなさんもどうです?地元のショボイプールでも結構楽しめます。
さてさて、授業か。論理的思考に耐えられなくなりつつある頭をしっかり使います。
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笑い
2001年7月12日 聊か最近更新が鈍っております。
暑いせいか、単なるネタ不足か、毎日気の利いたことを書こうとしていた自分に今更ながらに気づく。
そもそも上手く書こうなんてしなくったっていいんじゃん。もともと文章そんな得意じゃないから。
それよりも楽しく日記を書こうじゃないかと奮起しております。
さて、笑いっていいですよね(何が?)。
人の喜んでいる顔、笑っている顔、その場の雰囲気ってとても居心地が良く、なんだか一緒に笑っている仲間ととても一体感を感じられる瞬間ってありますよね。
でも自分は笑いの空気を作ることに関して、何らかの抵抗があるようです。どうも緊張したり、「つまんないかな」とちょっとした冗談でさえ、うちにとどめてしまう。きっと失敗するのが怖いんだろうな。
お笑い芸人ってやっぱりスゴイ。
ただ全身に漲るパワーであっとうする江頭2:50
好きですねぇ。あの無理してそうなリアクション、飛ばしすぎてチグハグになったあのドギマギ感。
あれだけ全力で表現するという面においては尊敬に値しますね―。
あと、藤井隆。初めて見たときは、確か「あっこにおまかせ」かなんかのテレビだった。「なんなのよー!!」とかいってオカマちゃんしてたっけ。
「うわー、ウゼーこいつ…」と思っていたんだけど、最近色んなギャップがあって面白い。
そんな一人の人の中にあるギャップってすごい面白いなぁ。きっと最初に持つイメージをブチ破られる経験なんだろうな。規制概念を超えるっていうか。
良く酒に酔って面白くなる人もいますよね。
オレなんかも、ゼミの新歓合宿で記憶無くして、後日、「お前おもしろすぎたよ!」って先輩に突っ込まれました。本人全然覚えていません。(笑)
どうやら携帯を分解して遊んでいたようです。しかもニコニコ楽しそうにですよ。バッテリーの所を外してそれはそれは喜んでいたようです…。
また、ベランダを走り回って喜んでいたようで、まるで子供のように遊んでいた(そんな平和なものではなかったのかも)らしい。
みんなからしてみれば、普段はちょっと真面目君してた俺(幹事長ってのもあり)が、壊れてたのはウケたらしいです。見事に体を張ってたわけですね。
あー、しかし人様に迷惑をかけなくて良かった。
粗相もしなかったようなので一安心でした。しっかり旅館の障子は、丁寧に一こま一こまひとさし指で穴をあけていたそうで、旅館の人…ごめんなさい。
無意識の時の自分って怖いですね。普段押さえていたものや、気づかないものが出てしまう。
怒り出したり、泣いたりしてなくてちょっと安心しました。きっとバカになって遊びたかったんだろうな。
そんな感じで話がぶっ飛びましたが、「笑い」って大切にしたいですね。ムスっ!として顔に皺をつくるより、沢山笑って素敵な「笑い皺」を増やして行きたいものですね。(その前に皺を作りたくないって???)
暑いせいか、単なるネタ不足か、毎日気の利いたことを書こうとしていた自分に今更ながらに気づく。
そもそも上手く書こうなんてしなくったっていいんじゃん。もともと文章そんな得意じゃないから。
それよりも楽しく日記を書こうじゃないかと奮起しております。
さて、笑いっていいですよね(何が?)。
人の喜んでいる顔、笑っている顔、その場の雰囲気ってとても居心地が良く、なんだか一緒に笑っている仲間ととても一体感を感じられる瞬間ってありますよね。
でも自分は笑いの空気を作ることに関して、何らかの抵抗があるようです。どうも緊張したり、「つまんないかな」とちょっとした冗談でさえ、うちにとどめてしまう。きっと失敗するのが怖いんだろうな。
お笑い芸人ってやっぱりスゴイ。
ただ全身に漲るパワーであっとうする江頭2:50
好きですねぇ。あの無理してそうなリアクション、飛ばしすぎてチグハグになったあのドギマギ感。
あれだけ全力で表現するという面においては尊敬に値しますね―。
あと、藤井隆。初めて見たときは、確か「あっこにおまかせ」かなんかのテレビだった。「なんなのよー!!」とかいってオカマちゃんしてたっけ。
「うわー、ウゼーこいつ…」と思っていたんだけど、最近色んなギャップがあって面白い。
そんな一人の人の中にあるギャップってすごい面白いなぁ。きっと最初に持つイメージをブチ破られる経験なんだろうな。規制概念を超えるっていうか。
良く酒に酔って面白くなる人もいますよね。
オレなんかも、ゼミの新歓合宿で記憶無くして、後日、「お前おもしろすぎたよ!」って先輩に突っ込まれました。本人全然覚えていません。(笑)
どうやら携帯を分解して遊んでいたようです。しかもニコニコ楽しそうにですよ。バッテリーの所を外してそれはそれは喜んでいたようです…。
また、ベランダを走り回って喜んでいたようで、まるで子供のように遊んでいた(そんな平和なものではなかったのかも)らしい。
みんなからしてみれば、普段はちょっと真面目君してた俺(幹事長ってのもあり)が、壊れてたのはウケたらしいです。見事に体を張ってたわけですね。
あー、しかし人様に迷惑をかけなくて良かった。
粗相もしなかったようなので一安心でした。しっかり旅館の障子は、丁寧に一こま一こまひとさし指で穴をあけていたそうで、旅館の人…ごめんなさい。
無意識の時の自分って怖いですね。普段押さえていたものや、気づかないものが出てしまう。
怒り出したり、泣いたりしてなくてちょっと安心しました。きっとバカになって遊びたかったんだろうな。
そんな感じで話がぶっ飛びましたが、「笑い」って大切にしたいですね。ムスっ!として顔に皺をつくるより、沢山笑って素敵な「笑い皺」を増やして行きたいものですね。(その前に皺を作りたくないって???)
カラオケ行きたいなぁ☆
2001年7月9日 なんだか最近、真面目な日記になっていたのでちと気分転換。ふー。
あんまり趣味を持っていない僕にも、好きなものがあるんです。そう、「カラオケ」です。
歌を唄っている時って、なんかスッキリしません?自己満足だとか、大声出しているからだかとかいうこともあるんだろうけど、エネルギー一杯使ってすぅーっとする感じってあるんです。
そう言えばカラオケなんて、中学生のころ初めて行って以来、随分世の中に普及していったもんですね。(オヤジみたい)
最初なんか声裏返っちゃって、ろくに唄えなかったっけ。初めて友達の前でマイクを握ったときのこと覚えてますか?とっても恥ずかしくて、マイクもってスピーカーから出てくる自分の声なんて滅多に聴いたこと無かったから、きっとすごい体験だったんだろうなぁ。
僕、槇原敬之の歌ってすごく好きなんですね。
一度麻薬所持事件で捕まっちゃった時はショックだったなぁ。ちょうど彼女と別れたときだったから余計に。
彼の詩の世界ってとてもいいんです。なんか自分とかぶるところがある。その歌をちゃんと唄えるようになりたいって思って練習したっけなぁ。懐かしい。
あとは、スピッツいいですねぇ。唄ってて気持ち良い。最近「遥か」を唄えるようになりました。なんて心地よい歌なんだろう☆
人の歌を聞くのも好き。
その人その人の声、歌い方、選曲。その人を感じられるようでいいですね。だからカラオケって楽しい。オールナイトの唄い放題なんて最高ですね。
うー、カラオケ行きたい。
そうそう、今ケミストリィを練習しています。
”半端な夢のひとかけら が♪”
こういう曲調の唄って初めてなのでとっても新鮮。すっげー難しいんだけど、練習しよーっと。
大切な人達に聞いてもらえるように…。
今日はとても私的な話題に終始してみました 笑。
あんまり趣味を持っていない僕にも、好きなものがあるんです。そう、「カラオケ」です。
歌を唄っている時って、なんかスッキリしません?自己満足だとか、大声出しているからだかとかいうこともあるんだろうけど、エネルギー一杯使ってすぅーっとする感じってあるんです。
そう言えばカラオケなんて、中学生のころ初めて行って以来、随分世の中に普及していったもんですね。(オヤジみたい)
最初なんか声裏返っちゃって、ろくに唄えなかったっけ。初めて友達の前でマイクを握ったときのこと覚えてますか?とっても恥ずかしくて、マイクもってスピーカーから出てくる自分の声なんて滅多に聴いたこと無かったから、きっとすごい体験だったんだろうなぁ。
僕、槇原敬之の歌ってすごく好きなんですね。
一度麻薬所持事件で捕まっちゃった時はショックだったなぁ。ちょうど彼女と別れたときだったから余計に。
彼の詩の世界ってとてもいいんです。なんか自分とかぶるところがある。その歌をちゃんと唄えるようになりたいって思って練習したっけなぁ。懐かしい。
あとは、スピッツいいですねぇ。唄ってて気持ち良い。最近「遥か」を唄えるようになりました。なんて心地よい歌なんだろう☆
人の歌を聞くのも好き。
その人その人の声、歌い方、選曲。その人を感じられるようでいいですね。だからカラオケって楽しい。オールナイトの唄い放題なんて最高ですね。
うー、カラオケ行きたい。
そうそう、今ケミストリィを練習しています。
”半端な夢のひとかけら が♪”
こういう曲調の唄って初めてなのでとっても新鮮。すっげー難しいんだけど、練習しよーっと。
大切な人達に聞いてもらえるように…。
今日はとても私的な話題に終始してみました 笑。
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夢、幻想
2001年7月5日 教員採用試験まであとちょっとです。
「逃げてる自分」「都合の良い言い訳を考えている自分」「なぜか穏やかな自分」色々います。
ずっと小さい頃から「夢」をもって生きてきた人って多いんじゃないですかね。それこそ子供の時の「ドラえもん」になりたい、「ウルトラマン」になりたいから、小学校の時の「サッカー、野球の選手」って感じで。
人にとって夢=目標は、なくてはならないもの、また方向性を示すものとして大切だと教えられてきました。そして、夢に向かってそれぞれ「努力」をするわけです。
成功する人もいる。失敗する人もいる。
一方で、僕達って自分に対して実は夢をもっていません?「僕はこんなところがあるんだ」「実はスゴイ人なんだぞ」って。自分の見たくないところを隠すように、色んな事を考えて、言い訳を付けて、「自分」っていう人間像を強化して行く。
だから、人に認められなかったり、否定されたりすると怒る。ふとした言葉で自分の今までの積み重ねを全て崩されるようで。
そこまで何を自分は守って生きているんだろう。
守っているものって何?
人生は戦いだ。だとしたら、もし、戦わなくてもよい世の中、相手が全く戦う意思のない人間に遭遇したら、どう対処するのだろう。まったくの接触を避けるか、否定するという形で戦いを起こすのか。
アイデンティティって大学でも良く取り上げられるけど、僕達は本当に日本人であることを知らないと生きていけないの?人は何をよりどころにして生きていくの?よりどころがないとだめなの?
古代の国家、国民という観念がまだなかった時代に生きた人々は、何をよりどころにしていたんだろう。何を感じ、どう生きていたんだろう。
自然―人工という図式の中で、人間が作ってきたものは、人工的なもの。様々な解釈や、主義、理論、それらが、もし幻想だったら…。
自分という目を、思考を心というフィルターを通してみる世界が、もしなんらかの幻想だったとしたら、僕達はどう反応するんだろう。
人が意思をもったということは、偶然にせよ、この地球にとってなんだったんだろう。
うーん、わかんなくなってきた。今日はここまで笑。
「逃げてる自分」「都合の良い言い訳を考えている自分」「なぜか穏やかな自分」色々います。
ずっと小さい頃から「夢」をもって生きてきた人って多いんじゃないですかね。それこそ子供の時の「ドラえもん」になりたい、「ウルトラマン」になりたいから、小学校の時の「サッカー、野球の選手」って感じで。
人にとって夢=目標は、なくてはならないもの、また方向性を示すものとして大切だと教えられてきました。そして、夢に向かってそれぞれ「努力」をするわけです。
成功する人もいる。失敗する人もいる。
一方で、僕達って自分に対して実は夢をもっていません?「僕はこんなところがあるんだ」「実はスゴイ人なんだぞ」って。自分の見たくないところを隠すように、色んな事を考えて、言い訳を付けて、「自分」っていう人間像を強化して行く。
だから、人に認められなかったり、否定されたりすると怒る。ふとした言葉で自分の今までの積み重ねを全て崩されるようで。
そこまで何を自分は守って生きているんだろう。
守っているものって何?
人生は戦いだ。だとしたら、もし、戦わなくてもよい世の中、相手が全く戦う意思のない人間に遭遇したら、どう対処するのだろう。まったくの接触を避けるか、否定するという形で戦いを起こすのか。
アイデンティティって大学でも良く取り上げられるけど、僕達は本当に日本人であることを知らないと生きていけないの?人は何をよりどころにして生きていくの?よりどころがないとだめなの?
古代の国家、国民という観念がまだなかった時代に生きた人々は、何をよりどころにしていたんだろう。何を感じ、どう生きていたんだろう。
自然―人工という図式の中で、人間が作ってきたものは、人工的なもの。様々な解釈や、主義、理論、それらが、もし幻想だったら…。
自分という目を、思考を心というフィルターを通してみる世界が、もしなんらかの幻想だったとしたら、僕達はどう反応するんだろう。
人が意思をもったということは、偶然にせよ、この地球にとってなんだったんだろう。
うーん、わかんなくなってきた。今日はここまで笑。
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冒険者であるということ
2001年7月3日 いやー、夏日が続きますね。このまま梅雨明けしてしまうのでしょうか。水不足で困らないといいですね。ぜひ今年はプールに遊びに行きたい気分なので、雨もしっかり降って欲しいな。
さてさて、教員採用試験も近づいてきました。準備の方は…さっぱりだったりして…。まぁこの話題はやまましょう。(現実逃避)
冒険者ってなんだろう。
「インディージョーンズ」も冒険者の一人ですね。探検家、登山家もそうではないでしょうか。
なにか未知のものを発見するために、なにかを克服するために挑戦する人。
では日々の中で「冒険」ってあるのでしょうか。
ありますよね。自分に対する冒険…。チャレンジ。
いっつも色々考えて行動してしまって、なぜだが同じようなパターンを繰り返してることってありません?
なんで人を意識してしまうとうまく離せなくなるんだろうとか。
そんな自分のパターン、思考の傾向を最近良く分かるようになってきた気がする。自分がどんな状況なのか。
冒険って簡単なんだろうけど、とても勇気のいるものなのかな。初めの1歩の方向を、その時の自分の状態に気づけるかどうか。
日々新しい、新鮮な経験を感じられるように…
さてさて、教員採用試験も近づいてきました。準備の方は…さっぱりだったりして…。まぁこの話題はやまましょう。(現実逃避)
冒険者ってなんだろう。
「インディージョーンズ」も冒険者の一人ですね。探検家、登山家もそうではないでしょうか。
なにか未知のものを発見するために、なにかを克服するために挑戦する人。
では日々の中で「冒険」ってあるのでしょうか。
ありますよね。自分に対する冒険…。チャレンジ。
いっつも色々考えて行動してしまって、なぜだが同じようなパターンを繰り返してることってありません?
なんで人を意識してしまうとうまく離せなくなるんだろうとか。
そんな自分のパターン、思考の傾向を最近良く分かるようになってきた気がする。自分がどんな状況なのか。
冒険って簡単なんだろうけど、とても勇気のいるものなのかな。初めの1歩の方向を、その時の自分の状態に気づけるかどうか。
日々新しい、新鮮な経験を感じられるように…
懐かしい感覚…
2001年7月2日 みなさんこんにちは。けいたです。
今日は、とっても気分がよいのです。昨日から30度を余裕で越える真夏日が続いていますが、あんまり気きになりません。ふふーん♪ウキウキって感じ。
どうしてでしょう???
そーなんです。ちっと胸がときめいてしまっていたりしている今日この頃なんです。
別に彼女ができたというわけではないんですけどね 笑。
久々なんですよね。ドキドキするのって。
人をなんかいいなぁーって思える自分をちゃんと認めているというか、受け入れているというか。
妙な落ち着きの無さ、なんとなく嬉しい感じ。
ちょっと不安な感じ、むずむずする感じ…。
沢山の感情や、体験が起こってきています。
もう古い体験は完了したかな?新しいものを受け入れる準備ができたのかなというとても新鮮な感覚でいられることがとっても嬉しいです☆
少ーしずつ近づいて行ってみよう。ドキドキ…
(今日の日記はなんなんでしょう???)
今日は、とっても気分がよいのです。昨日から30度を余裕で越える真夏日が続いていますが、あんまり気きになりません。ふふーん♪ウキウキって感じ。
どうしてでしょう???
そーなんです。ちっと胸がときめいてしまっていたりしている今日この頃なんです。
別に彼女ができたというわけではないんですけどね 笑。
久々なんですよね。ドキドキするのって。
人をなんかいいなぁーって思える自分をちゃんと認めているというか、受け入れているというか。
妙な落ち着きの無さ、なんとなく嬉しい感じ。
ちょっと不安な感じ、むずむずする感じ…。
沢山の感情や、体験が起こってきています。
もう古い体験は完了したかな?新しいものを受け入れる準備ができたのかなというとても新鮮な感覚でいられることがとっても嬉しいです☆
少ーしずつ近づいて行ってみよう。ドキドキ…
(今日の日記はなんなんでしょう???)
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