「教」と「育」

2001年12月7日
 ゼミ飲みと疲労により体調を崩した。
うーん、この時期の健康管理は特に気をつけないと。

 先日教職の授業で「教」と「育」の話を先生が話されていたことを思い出しました。

 今の教育って「教える」事ばかりに気を取られて、その子供自身の「育」の部分をあまり考えないよねという話だった気がします。

 そういえば、幼心に中学生位のとき、「知識は、それを使いこなす人間の幅の広さがないと意味がない」なんて偉そうなことを一人で思っていたなということを思い出しました。どうしてそういう考えをもつようになったかは忘れてしまいましたが。

 どんなにすごい知識を得たって、それを使う人間の心次第で変わるんだって事を、知ってか知らずか当時考えていたのでしょう。それは今にも影響を与えているんだろうと思います。

 世の中にある、様々な知識―人文科学・自然科学・社会科学―を、詰め込もうと思えば、言葉の上での理解はきっと出来るのでしょう。

 世界情勢がどうなっていて、ものの理はいかに定まっていて…などなど。

 きっと僕にとって、そうした知識としての理解より、内面性、つまり本当の理解を望んでいたのかもしれません。

 あることを知り、そして使いこなせる人間の器。それがきっと欲しかったものなんだろうなと今は思います。いくら本を読んでも、自分の中に興味や関心が無ければ、全て流れ去ってしまいます。

 逆に、自分が内面から必要としたり、欲したりしたものって、知らず知らずのうちに身につきます。そういえば、今まであまり「これ!」と与えられてものって好きでは無かったなと思う。学校の勉強や塾に行ったこと、ゲームや仲間遊び…。全て自分の中に準備が出来てからやっていたような気がする。

 「教」は、ともすれば、誰か他の人が決めたものをカリキュラムという形で与えられるものであるなと思います。

 一方、「育」って、自分の中の準備、すなわち、あるものを自分の中に取り入れる時の内面的な受容なのかもしれない。

 きっとそれは誰かが作りあげるものではなく、自然に自分で何かを吸収する準備をしていく過程のことではないかなと思う。

 大学に入って、勉強っていう事に本当に悩んだ。なんでこんなに興味が持てないんだろうと。なんで日々の生活の中に溶け込んでこないのだろうと。

 自分にとって、大学という場で学問に励むという営みは、ひょっとするとまだ早い、準備が出来ていなかったのかもしれない。

 ただ、大学の中で、様々な人間に出会い、集団を形成し、その中で体験してきた過程で僕の中で「育ってきた」ものがあるとすれば、人に対する興味だろう。

 どんな組織でも、どんな活動でも、「いかに多くのメンバーで、いかに充実度を高め、一人一人の笑顔を引き出すか。居てよかったと思える仲間作りができるのか」という事における学びの準備は確実に整い、それなりに自分で必要な知識や、体験を積んできた。

 誰かに与えられたものではない。自分の中から出てくるもの。人の評価を求めるものではないもの。そうした「内なるエネルギー」とでもいうべき固有の現れ方こそが、「個性」というものなのかもしれない。また、人の力を超えたものから与えられた贈り物なのかもしれない。

 「育」を育てるっていうのは変な言い方だ。
「育」は、「育てられる」ものでなく、「育つ」ものという風に理解すると、おのずと人との関わり、教育と呼ばれる営みにも変化が訪れるのではないだろうか。

 極端な話、人の成長は人のものなのだ。
人にコントロールされる事ではない。人に捻じ曲げられたりするものでもない。捻じ曲げるべきものでもない。 

 知ることなんだと思う。自分の中のものを。可能性を。それがきっと何よりの教育なんだと思う。
他者に対して有効な働きかけをと意気込むのも、実は本末転倒なのかもしれない。

 かとって、無責任に放任するのではない。
「観る・聴く・関わる」ことなんだと思う。
ただただ、目の前にいる相手を、自分を。

 そこには、期待や、苛立ちや、様々な自分の中の価値観・こうあるべきという判断が生まれる。
それはそれ。人にぶつけるものではない。

 だからこそ、「忍耐」って大事なんだ。
見守ること、その人の「成長する力」を信じてただ待つこと。その中に、当然自分のエゴの声や、感情を観る。それすら、自分の成長を信じて見守る。

 余りにも、分かっているようで分からないことが多すぎる。言葉が多すぎる。

 

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