観念と体験(感情)

2001年11月19日
 教育関係の文章を読むと、「〜すべきである。」という文面や、「○○するのは、人類が長い歴史の中で築いてきた伝統・文化・風習であるのだから、それに従うのは当然である。」と言うような書き方が多いように思える。

 そこで、伝統や文化の生まれくる過程と、既に出来あがったもの,そして「伝統」「文化」を一つのルールのようなものとして扱い、普遍的に適用しようとする動きとを考えてみたい。

 「目上の人を尊敬しなさい。」といういわゆる常識があるとする。それがひとつの暗黙のルールとするならば、それを武器に年下の後輩に対し「俺は先輩なんだから尊敬しろ。」と言うとしたらどうか。あたかもグローバリゼーションの力で、アメリカ方式を押し付ける普遍主義のような一方通行の関係を築く事になるだろう。

 伝統や文化という人々が、それぞれの生活圏、文明圏で築き上げてきた、この尊い相互共通認識の体系は、始めから「ルール」のような感覚で強制を強いるものという一面的なものではなかったと推測してみた。

 なぜか、そこには一人一人、部族・民族、国民の感情を含めた、「伝統」「文化」に対する表面的ではない体験,思いが内在していたからに他ならないと思うからである。

 孔子の「論語」が、今でも読み継がれ、それぞれの視点で評価されたり、取り上げられるもの、今現在の生活において、「あぁ、そうなんだなぁ」と実感を持てる場、経験をした人のみが本当の意義を見出せるのではないか。

 歴史を見渡し、「我が国民は、長い歴史の中で築いてきたものを守り、言い伝えなければならない」という論も最もであろう。しかし、自然科学のように、観察を通じて得られた一つの法則性を、そのまま現在を生きる人々に適用「させよう」としても、体験や感情が伴わなければ、真に理解し、消化し、内面化させることは困難であると考える。

 時と共に、価値観や常識は変化する。時に道徳も表面的な変化をせざるを得ないのは、それぞれの「現在」を生きる人間の経験が違い、環境の変化の中で変化せざるを得ない一面があるからだろう。

 道徳や、倫理、価値観、思想といったものは、単に観念や、表面的な言葉だけで理解し得るものではない。

 今、人々のモラルが低下していると言われているもの、つまりは「体験・感情」として「なんでもあり」的な経験を人生の中で培ってきたのだろう。

 謙遜や、節制、共同体意識などは、現に私達の中に「維持し、語り継いでいくもの」としての認識・感情が失われつつあるのであろう。

 物質的豊かさを経験し、それに飽き始めている現在、それまで経験してきたものとは何だったのか、そして、経験し得なかったものとは何だったのかを知る必要があるだろう。

 私達は、本当に必要なものしか自分の中に取り入れないのではないか。それが表面的であれ、本質的なものであれ、善であれ悪であれ。 

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