エゴイズム
2001年11月15日 エゴイズムとはなんだろう。
分かりやすいエゴと、分かりにくいエゴがあると思う。
前者は、人に明らかな違和感・不快感を与えるであろうもの。または、自覚症状を伴うもの。
後者は、本人にとって善意を伴うものである。つまり自分のエゴティックなものに気づかず、「良かれと思って、相手に何か働きかけるが、実際のところ自己満足のため」に行われる行為に内在する。
この2つがあると思う。
そしてこの両者の判別が、かなり難しいことは前々から気づいている。ともすれば、自分の行為を「他人のため」という大義名分を掲げて、あたかも完全に正しい行為であるかのように振舞う。
身の回りをよく見返してみるとありませんか。
「気持ちは嬉しいんだけど、おせっかい」とか、「なんか取引している感覚」とか、「必要としていないのに、無理に押し付ける」など。
「本人は良かれと思っているんだろうけど、ちょっとねぇ」って一度は思ったことありません?
そして、ひょっとしたら自分も?と思ったことがどれだけありますか。
「まさか、自分はそんなことしているつもりはない」と思った人。結構やっているかもしれません。
僕もやってます。後で気づくことが多いですが。
「普遍主義」を謳う文明,制度は時として、其の中にエイゴイズムを潜ませています。
「親の子を思う気持ちから出るしつけ」
これもまた、多く自分の達成できなかったことを子供に期待し、幻想を抱くというエゴにつながります。
児童虐待は、エゴ以外の何者でもないでしょう。
「この子が私をそうさせた」ともし言い張ったとしても、幼い子供に、親の様子を伺い、わざと仕向けさせるような思考能力があるでしょうか?
テロだってそうです。
「価値観」は多様です。一人一人違うとも言います。そこが「特殊」であるというのなら、「価値観」に基づいたある種の他者に対する強制は、エゴテックなものなのかもしれません。
「価値観」が、主に思考から生まれる捉え方、考え方だとしたら、「心」は感情でしょうか?精神は?
科学的な観点からは、「心」、「感情」、「精神」は測れない(測りにくい)ものではないでしょうか。
人には、思考と感情(心・精神)があると思います。頭で考えられる部分と頭や言葉ではなかなかつかめない部分。
この二つを、科学的に数値化した「客観性」もしくは「普遍性」という一本のモノサシでは捉えきれないのではないでしょうか。かくいう僕も今、思考の面で文章を書いていますが。
心理学が起こり、発展してきています。「脳」の研究も盛んで、人の心的動きを把握しようと懸命になっているのではないでしょうか。
でも実際、自分という一人の人間の内面も僕たちは知ることができないまま、一生を終えるのでしょう。知る必要もないのかもしれません。しかし、自分のことを知ることが出来るのは、多分自分ひとりなのでしょう。
エゴ。不思議なものですね。
ただ、あるんだなと観察するだけで、表面化しないエゴの働きを知ることができないかなぁ。
分かりやすいエゴと、分かりにくいエゴがあると思う。
前者は、人に明らかな違和感・不快感を与えるであろうもの。または、自覚症状を伴うもの。
後者は、本人にとって善意を伴うものである。つまり自分のエゴティックなものに気づかず、「良かれと思って、相手に何か働きかけるが、実際のところ自己満足のため」に行われる行為に内在する。
この2つがあると思う。
そしてこの両者の判別が、かなり難しいことは前々から気づいている。ともすれば、自分の行為を「他人のため」という大義名分を掲げて、あたかも完全に正しい行為であるかのように振舞う。
身の回りをよく見返してみるとありませんか。
「気持ちは嬉しいんだけど、おせっかい」とか、「なんか取引している感覚」とか、「必要としていないのに、無理に押し付ける」など。
「本人は良かれと思っているんだろうけど、ちょっとねぇ」って一度は思ったことありません?
そして、ひょっとしたら自分も?と思ったことがどれだけありますか。
「まさか、自分はそんなことしているつもりはない」と思った人。結構やっているかもしれません。
僕もやってます。後で気づくことが多いですが。
「普遍主義」を謳う文明,制度は時として、其の中にエイゴイズムを潜ませています。
「親の子を思う気持ちから出るしつけ」
これもまた、多く自分の達成できなかったことを子供に期待し、幻想を抱くというエゴにつながります。
児童虐待は、エゴ以外の何者でもないでしょう。
「この子が私をそうさせた」ともし言い張ったとしても、幼い子供に、親の様子を伺い、わざと仕向けさせるような思考能力があるでしょうか?
テロだってそうです。
「価値観」は多様です。一人一人違うとも言います。そこが「特殊」であるというのなら、「価値観」に基づいたある種の他者に対する強制は、エゴテックなものなのかもしれません。
「価値観」が、主に思考から生まれる捉え方、考え方だとしたら、「心」は感情でしょうか?精神は?
科学的な観点からは、「心」、「感情」、「精神」は測れない(測りにくい)ものではないでしょうか。
人には、思考と感情(心・精神)があると思います。頭で考えられる部分と頭や言葉ではなかなかつかめない部分。
この二つを、科学的に数値化した「客観性」もしくは「普遍性」という一本のモノサシでは捉えきれないのではないでしょうか。かくいう僕も今、思考の面で文章を書いていますが。
心理学が起こり、発展してきています。「脳」の研究も盛んで、人の心的動きを把握しようと懸命になっているのではないでしょうか。
でも実際、自分という一人の人間の内面も僕たちは知ることができないまま、一生を終えるのでしょう。知る必要もないのかもしれません。しかし、自分のことを知ることが出来るのは、多分自分ひとりなのでしょう。
エゴ。不思議なものですね。
ただ、あるんだなと観察するだけで、表面化しないエゴの働きを知ることができないかなぁ。
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