マザーテレサ

2001年11月1日
 信仰とは、どうして人をこんなにもひたむきに、そして健気に、また強くさせるのだろうか・・・

 そんなことを感じさせてくれた人物がマザーテレサです。貧しい人たちに手を差し伸べ、自ら貧困のうちに身をおき、神の道具として、人々の救済に人生をかけた偉大な人物。

 でも本人は決して「偉大」とか、「特別なこと」とは思っていないのでしょう。

 彼女は言っています。
「私に自分にできるわずかのことを選んだだけ」と。また「Poor is beautiful.」とも言っています。

 いやー、ちゃんと書きたいなぁこれ。
沖 守弘さんが書いた「マザーテレサ あふれる愛」という本が手元にあるんですけどね。

 キリスト教信仰そのものを、何か越えた人間の救済への意思というものを、ひしひしと感じるんです。

 人間として、どうしてここまで徹底して救済の道をあるけるんだろう。実際に行っていることは、スラム街の、困った人の話を聞いて、適切な援助をしているということ。言ってみればただそれだけなんですね。(偉大なことではありますが)

 自分に置き換えてみます。
もし、道路で倒れている人がいたら、自分はどうするだろう。知らない人に、助けてください!と急に言われたらどう対応するだろう。本当に貧しい人々のことを救うという意思をもてるだろうか。まわりの人を救おうとおもえるだろうか。

 自分のことを優先しないだろうか…

 電車で席を譲るにも、ちょっとした勇気がいります。まして、泥酔して一人で倒れている人をみて、少し血がついているような人を見たら、「あぁー、関わりたくないなぁ」と正直思うんじゃないかな。
あとで「死にはしなそうだったからほっといた。本当にやばそうだったら何かしたかもしれないけどね」と本気で言ってしまいそうな自分がいます。

 人に手を差し伸べること。それ自体とても勇気がいることなのでしょう。自分の中に、面倒臭さや、怖さ、困難さが生じれば生じるほど、それを超える勇気が要ります。

 誰しもそういう行為に憧れるのでしょう。僕も例外なく。しかし、実際に行動できる人、している人はまれです。

 人の助けなんて欲しくないとさえ思っている人もいるでしょう。

 ただただ、瞬間瞬間に「私ができるわずかなことを選んだだけ」という援助を、行為を、人はどれだけ待っているか。そして自分からは拒んでいるか。

 人間性ってこういう所の成熟を言うんじゃないかなぁと思います。道徳を振りかざす人より、さっと手を差し伸べる人、そっとそばにいられる人が勇気ある人なんだろうなぁ。

 あなたは、誰か助けたい人はいますか?
 助けを必要としている声が聞こえますか?
 自分はどうですか?
 自分のことで精一杯ですか?

深い問いになっていくことでしょう…

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