エミールを読む。
2001年10月30日 今日、後輩に昨日の日記のことを聞かれた。
あんまり普段「怒り」を表現しないので、ちょっと珍しい一面を見せていたらしい。
まぁ温和な人間の中にも、ちゃんと負の部分、暗の部分はあるんだね。人間は深いなぁ。
さて、
「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。・・・」
そう、偉大な思想家ルソーの「エミール」を最近読んでいる。
人の自然の成長を信じ、人為を排斥せよという論旨らしい。殊に教育は、何者かによって、子供を操作(言葉は悪いが)する営みがあるという事実は否めない。それが例え、「社会生活に順応させるため」であったとしても、「安定した将来を望むために」という理由であっても、少なからず人をある一定の方向に進めようという意図があることは誰もが認めるところではないだろうか。
世の中で生きていくために、僕たちが身に付けなければならないものとは何か。世代を超えて受け継がれてきた処世術のようなものは、裏を返せば現在の体制を、社会の既存の構造を、人々の意識を「安定」させるための処方箋なのかもしれない。
こうすればうまくいく!と書店のビジネス書コーナーには、哲学・How toもの、人生論など、びっちり埋まっている。
スポーツの世界にも、ルールというものがあり、選手はそのルールの下で戦術、理論を駆使し、勝利を目指す。ルールとは、あくまで人が作っているものである。スキーや、スケート競技では、使える道具によっては、小柄な選手に有利に働いたり、パワーよりも、技術に力点がおかれたりするという、人の対応の仕方が変わる。
ルールとは、あってしかるべきであり、安易に破るべきではない。しかし、ルールとは、一体何者なのだろうか。
自然の理、それ自体一定の法則を持ち、天体の動き、季節、生命の生死など、一定のルールがある。それは、人にも当然当てはまる。
人間以外の生物・植物はこの「自然の理」に従って生きている。弱肉強食というのも、食物連鎖と言う面からみれば、当然の摂理である。
では、人間に当てはめる。現在のアメリカ主導のグローバリゼーションのもとで、猛威を振るう市場経済、自由貿易推進を掲げる経済体制は、強者である。それに対し、弱者である開発国は、淘汰されてしかるべきであるという論理が成り立つのか。
先進国の経済を支えるため、その他大勢の人々は、人口を増やし、何とか生産を追いつかせようと必死に働く。人口問題が発生し、貧困格差、環境破壊など様々な問題を生じる。
だがそれも、人間のみを見た場合のことである。
地球規模でみれば、人類が増えれば、それだけの人類を生存させるだけの食料、資源が必要になる。
しかし、環境が破壊され、他の生物が今まで以上に豊かに生産される保証はない。巨大な、人間にはどうすることもできない自然の摂理の中で、私たちを育んでいる生物・植物は生きているのだ。
人間は「技術」の力をもって、自然に立ち向かおうとしているのか。全てを支配できると思っているのか。
いつから人類は、母である地球を守っていくことを忘れたのか。人類が誕生して、長い年月の中、後半のたった2000年で、「進歩」という栄光を得たかのように思っているが、実は地球レベルで見たら「衰退」の一途をたどっているのではないか。
子供が、公園の林を見て「昔の地球だね」とつぶやいていたことをはっきりと思い出した。
まだ彼らは知っているのである。地球の本来の姿を。
あまりに日常の生活と、地球レベルの認識がかけ離れてしまっている。ちょっとでも気を緩めると飲まれてしまう。
いつ人々の叡智が、生命の保存・維持に向くのか。または、地球もまた、生死の自然のプロセスをただ歩みつづけているだけなのだろうか・・・。
エミールとは遠ざかったが、こんな問題についても、そろそろ各論へ、具体的なアプローチへと進んでいかなくてはならない。
あんまり普段「怒り」を表現しないので、ちょっと珍しい一面を見せていたらしい。
まぁ温和な人間の中にも、ちゃんと負の部分、暗の部分はあるんだね。人間は深いなぁ。
さて、
「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。・・・」
そう、偉大な思想家ルソーの「エミール」を最近読んでいる。
人の自然の成長を信じ、人為を排斥せよという論旨らしい。殊に教育は、何者かによって、子供を操作(言葉は悪いが)する営みがあるという事実は否めない。それが例え、「社会生活に順応させるため」であったとしても、「安定した将来を望むために」という理由であっても、少なからず人をある一定の方向に進めようという意図があることは誰もが認めるところではないだろうか。
世の中で生きていくために、僕たちが身に付けなければならないものとは何か。世代を超えて受け継がれてきた処世術のようなものは、裏を返せば現在の体制を、社会の既存の構造を、人々の意識を「安定」させるための処方箋なのかもしれない。
こうすればうまくいく!と書店のビジネス書コーナーには、哲学・How toもの、人生論など、びっちり埋まっている。
スポーツの世界にも、ルールというものがあり、選手はそのルールの下で戦術、理論を駆使し、勝利を目指す。ルールとは、あくまで人が作っているものである。スキーや、スケート競技では、使える道具によっては、小柄な選手に有利に働いたり、パワーよりも、技術に力点がおかれたりするという、人の対応の仕方が変わる。
ルールとは、あってしかるべきであり、安易に破るべきではない。しかし、ルールとは、一体何者なのだろうか。
自然の理、それ自体一定の法則を持ち、天体の動き、季節、生命の生死など、一定のルールがある。それは、人にも当然当てはまる。
人間以外の生物・植物はこの「自然の理」に従って生きている。弱肉強食というのも、食物連鎖と言う面からみれば、当然の摂理である。
では、人間に当てはめる。現在のアメリカ主導のグローバリゼーションのもとで、猛威を振るう市場経済、自由貿易推進を掲げる経済体制は、強者である。それに対し、弱者である開発国は、淘汰されてしかるべきであるという論理が成り立つのか。
先進国の経済を支えるため、その他大勢の人々は、人口を増やし、何とか生産を追いつかせようと必死に働く。人口問題が発生し、貧困格差、環境破壊など様々な問題を生じる。
だがそれも、人間のみを見た場合のことである。
地球規模でみれば、人類が増えれば、それだけの人類を生存させるだけの食料、資源が必要になる。
しかし、環境が破壊され、他の生物が今まで以上に豊かに生産される保証はない。巨大な、人間にはどうすることもできない自然の摂理の中で、私たちを育んでいる生物・植物は生きているのだ。
人間は「技術」の力をもって、自然に立ち向かおうとしているのか。全てを支配できると思っているのか。
いつから人類は、母である地球を守っていくことを忘れたのか。人類が誕生して、長い年月の中、後半のたった2000年で、「進歩」という栄光を得たかのように思っているが、実は地球レベルで見たら「衰退」の一途をたどっているのではないか。
子供が、公園の林を見て「昔の地球だね」とつぶやいていたことをはっきりと思い出した。
まだ彼らは知っているのである。地球の本来の姿を。
あまりに日常の生活と、地球レベルの認識がかけ離れてしまっている。ちょっとでも気を緩めると飲まれてしまう。
いつ人々の叡智が、生命の保存・維持に向くのか。または、地球もまた、生死の自然のプロセスをただ歩みつづけているだけなのだろうか・・・。
エミールとは遠ざかったが、こんな問題についても、そろそろ各論へ、具体的なアプローチへと進んでいかなくてはならない。
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