醜さ・罪悪感について
2001年10月24日 現在午前一時です。うーん、久々の夜更かし。
来月使うグループワークの参加賞のメダルの試作品を作っていました。
Qoo(ドリンクのキャラクター)をモデルにしたメダルで、厚紙にフェルトを貼ったものと、ちょっとぬいぐるみ風に綿を入れて立体感を出したものを作りました。
僕結構、工作が好きなので、半分趣味で人形を作ってみました。明日の試作品公開でどんな反応になるのやら・・・。実際のところ、30個程度の量産を目指さなければならないため、簡単な作りの物になるんだろうなぁ。
さて、今日は、「醜さ」「罪悪感」を感じてみようかと思います。なんでわざわざそんな事をするのか。どうも自分は「醜い」「悪い」ものであるという観念が僕の中にはあるようです。
別に悪いことをしているわけではありませんよ(笑)。
いつしか、人にものを頼むことや、援助を受けることに困難さを感じている自分がいることに気づいたのです。
内なる会話っていうか、「悪いよなぁ」「相手が大変だよなぁ」とか、「迷惑だよなぁ」とか。
それは、よく言えば、「相手のことを考えて、謙虚に自分を抑えている」ということになるのかもしれない。
でも、本当に困っている時、助けを必要としているとき、相手にわかってほしいものがあるとき・・・
そんな時でさえ、自分の中の何かが、表現をとめるんです。
僕はよく子供の話を書いています。よく自分と照らし合わせてみるんです。子供のだだをこねるという行為、それ自体よい悪いは扱いません。ただ、子供は自由なんです。難しい常識(公衆の前では、おとなしくしている等)は、彼らに通用しません。わからないんです。ただ、目の前にあるものが欲しい。または、何かを欲している、それだけなんですね。
でも大人(妙な分別がついた後)は、何かと理由をつけて、行動を制限したり、抑えたり、そう振舞うことで大人であることを証明しているのではないでしょうか。ごく自然に、当たり前のように・・・。
いつから止めるようになったのでしょうか?いつから素直な気持ち、感情、感覚を捻じ曲げたり、抑えてみたり、暴力的な形で表すようになったのでしょう?
「あぁ、自分の気持ちをそのまま表現することって、いけないことだったんだぁ。」
そんなことを、中学三年の時、担任の先生から言われた言葉で思いました。
「あなた(当時生徒会長してた)は、自分が言うことの影響力が大きいんだから、勝手なことをいわないの!」
と言われたことをよく覚えています。他の友達はいいけど、俺はだめなんだぁって。漠然と受け止めてしまったんですね。
自分の感情や、欲望や、怒りや悲しみを、「醜いもの」として隠してきたんだなぁと電車にのっているときに改めて出てきました。役割や、立場や、他人の評価を気にしてたんだなぁと。(随分前から、こうしたことに対しての理解は深めてきたんですけどね・・・)
「醜さ・罪悪感」は、人が持っている本来の魅力を損なうようです。ある仲間内では、僕の印象は、「純粋・透明感」なんていう言葉を出してもらってます。子供ともエネルギーが会うようです。
知らないうちに放っている自分の空気と、自分が長い間に作り上げてきた自分への観念。
そこには大きなギャップがあるようです。自分がどんな経験の中で、どんな観念や思い込み、価値観を作り上げてきたのか、また、今持っているのか。そうしたことを探求していくことは、今後とても大切な学びになるのではないかと思います。
なぜなら、それらは必ず自分の子供に受け継いでいくことになるのだから。
僕らが理解し得なかったものを、次の世代に宿題として残すことになるのだから・・・。
来月使うグループワークの参加賞のメダルの試作品を作っていました。
Qoo(ドリンクのキャラクター)をモデルにしたメダルで、厚紙にフェルトを貼ったものと、ちょっとぬいぐるみ風に綿を入れて立体感を出したものを作りました。
僕結構、工作が好きなので、半分趣味で人形を作ってみました。明日の試作品公開でどんな反応になるのやら・・・。実際のところ、30個程度の量産を目指さなければならないため、簡単な作りの物になるんだろうなぁ。
さて、今日は、「醜さ」「罪悪感」を感じてみようかと思います。なんでわざわざそんな事をするのか。どうも自分は「醜い」「悪い」ものであるという観念が僕の中にはあるようです。
別に悪いことをしているわけではありませんよ(笑)。
いつしか、人にものを頼むことや、援助を受けることに困難さを感じている自分がいることに気づいたのです。
内なる会話っていうか、「悪いよなぁ」「相手が大変だよなぁ」とか、「迷惑だよなぁ」とか。
それは、よく言えば、「相手のことを考えて、謙虚に自分を抑えている」ということになるのかもしれない。
でも、本当に困っている時、助けを必要としているとき、相手にわかってほしいものがあるとき・・・
そんな時でさえ、自分の中の何かが、表現をとめるんです。
僕はよく子供の話を書いています。よく自分と照らし合わせてみるんです。子供のだだをこねるという行為、それ自体よい悪いは扱いません。ただ、子供は自由なんです。難しい常識(公衆の前では、おとなしくしている等)は、彼らに通用しません。わからないんです。ただ、目の前にあるものが欲しい。または、何かを欲している、それだけなんですね。
でも大人(妙な分別がついた後)は、何かと理由をつけて、行動を制限したり、抑えたり、そう振舞うことで大人であることを証明しているのではないでしょうか。ごく自然に、当たり前のように・・・。
いつから止めるようになったのでしょうか?いつから素直な気持ち、感情、感覚を捻じ曲げたり、抑えてみたり、暴力的な形で表すようになったのでしょう?
「あぁ、自分の気持ちをそのまま表現することって、いけないことだったんだぁ。」
そんなことを、中学三年の時、担任の先生から言われた言葉で思いました。
「あなた(当時生徒会長してた)は、自分が言うことの影響力が大きいんだから、勝手なことをいわないの!」
と言われたことをよく覚えています。他の友達はいいけど、俺はだめなんだぁって。漠然と受け止めてしまったんですね。
自分の感情や、欲望や、怒りや悲しみを、「醜いもの」として隠してきたんだなぁと電車にのっているときに改めて出てきました。役割や、立場や、他人の評価を気にしてたんだなぁと。(随分前から、こうしたことに対しての理解は深めてきたんですけどね・・・)
「醜さ・罪悪感」は、人が持っている本来の魅力を損なうようです。ある仲間内では、僕の印象は、「純粋・透明感」なんていう言葉を出してもらってます。子供ともエネルギーが会うようです。
知らないうちに放っている自分の空気と、自分が長い間に作り上げてきた自分への観念。
そこには大きなギャップがあるようです。自分がどんな経験の中で、どんな観念や思い込み、価値観を作り上げてきたのか、また、今持っているのか。そうしたことを探求していくことは、今後とても大切な学びになるのではないかと思います。
なぜなら、それらは必ず自分の子供に受け継いでいくことになるのだから。
僕らが理解し得なかったものを、次の世代に宿題として残すことになるのだから・・・。
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