みなさん夏バテしてませんか?
汗をかいて、クーラーのガンガン効いた部屋にいるのは健康に良くないですね。思いきって外に出て、たっぷり汗をかいてしまうと、以外と平気になるもんです。太陽の光を楽しみましょう♪

 さて、今日は「現行の教育を越えるには…」ということについて考えてみたいと思います。しっかし、あんまり本も読んでいないような状態なので、「しっかりした」ものは書けませんけど。

 どうも学校教育って疑問が絶えません。まぁなんでもそうだと思うんですけど、学校って勉強しに行く所ですよね?でもそれって誰が決めたんですか?
校則は拘束だし、そもそもなぜ勉強するの?っていう問いに答えられないですよね。どこか嘘臭い。

 こんなに疑問をもってしまっている自分が教職を志すことにちょっと矛盾を感じているわけです。
 昨日見たゼミの先生の論文で、イギリスの文学者の人が、教育には三つ目的がある。確か一つが生計を立てられる教育、2、3つ目がなんだっけな、人格なんかの成長かな、人間としての成長のようなことを書いていました。正確な記憶でなくて済みません。

 今の学校って例えば生計を立てる教育って出来てますかね?まぁ資格取得のカリキュラムがある所ならまだしも、少なくとも普通科高校だったら「大学受験科」とでもした方がいいような気もする。

 だって企業からすれば、入社してからみっちり社員教育すればいいんですよね。大学までの居教育にそんなに期待していない。しかも今の就職難(若干変化しているらしいが)で、即戦力といって、入社してすぐに使えるエキスパートが欲しいらしい。まぁ実際のところは経験してないので分からないんですけど。

 だから、大学生のうちに「将来有望な資格をゲット!」という宣伝で様々な試験対策をあちこちでやっているんだろうなと思う。だってそこに行った方が明らかに実践的で、所謂生計を立てて行くための勉強になる。

 では、大学の存在は?生計のためだったら、高校段階から情報処理なり、英検なり、法律の勉強なりの試験をパスするための授業を選択性にしてやって行った方が、よっぽど「受験に必要無いから」っていう理由で適当にこなす教科よりも為になるような気がしません?

 でも一方で、人間性の成長っていう目には見えないものへの追及が、教育という言葉が適切かどうかは別として、重要なテーマになるのではないかと思います。さっきまで書いたことはあくまで合理主義的な考え方から出てくるものなんですけどね。

 「心の教育」「ゆとり」「個性をはぐくむ」など、指導要領には載って様々な議論を生んでいます。

 人の成長ってなんでしょうか。心が豊かになる、人格が優れている、個性って何?ゆとりって何?どうすればいいの?

 きっとみんな迷っているんじゃないですかね。僕も含め。だってみんなそれぞれ「頑張って」いますよ。明らかに。自分を高めよう、もっとこんな自分になろう、夢をかなえようって。

 でもなかなか上手くいかない。なんで上手くいかないかがわからない。
 よくよく見てみると、今まで自分が生きてきた中でやってきたことって、人間関係の中でのコミュニケーションであったり、自分自身とのコミュニケーションであったり、自分のもっている幻想とのコミュニケーションだった気がする。

 「これは良いのか悪いのか」、「人の迷惑になるかならないか」、「できるか、できないか」という様々な判断をして生きてきた。それしかしていないと言ってもいいかもしれない。

 でもなかなかそうしている自分にも気づかなかった。いつも同じ所をグルグル周っているような気がしてた。抜け出したくても抜け出せなかったなぁ。
はまっている自分すら知らないから。

 この話題、また次回書きます。ではでは。

夏風邪はつらいですよー。健康、自分の状態にはくれぐれも留意して行きましょう。

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