教員になること
2001年5月15日 今日は、改めて自分の中で”教職”に就くということについて考えてみたい。
教員、教師、先生と色んな呼び方があるこの職業。そして近年の少子化に伴ってますます狭き門になっている職業の一つ。まして、学級崩壊や教師の事件や、ノイローゼなど、暗い話に事欠かない話題の職でもある。
なぜ今その職を目指すのか。この大学4年はある意味、就職を決める一生で一番ポイントにある一年であるかもしれない期間を、一般企業に目もくれず追い求めているのか。
それは厳しい就活を避けている逃げなのか、違う、それとも子供は俺が救ってやるという傲慢さを誇示しているだけなのか、それも違う。
それは、僕個人の生き方につながるものがあるからである。
「しっかり物を見て、知ること」それが僕の人生の大きな目標。
そして、多くの人たちと分かち合う中で、豊かさを見出して行く生き方を望んでいる。ではなぜ教員でなければならないのか。
それは、可能性を相手にするからである。
子供とは、可能性である。そして大人が持っている価値観を違った視点で見ている。そんな彼らと、物事を見て、どんな生き方をお互い歩んで行くのかをしっかり見据えることに援助する、伴走者でありたいからである。
そしてそれは同時に、僕という個人に、多くの子供に伴走してもらうことでもある。お互い高めあっていくのだ。
ではなぜ学校か。学校とは一種の閉鎖性を持つ機関である。近年それも少しづつ解け始めているらしいが、一種「社会」という空間、価値体系から良い意味でも悪い意味でも距離を置いているもである。
そこで何をするのか。社会から1歩遠ざかったしてんをもって、生きること、学ぶことをじっと見ていくのである。社会の流れに呑まれ、社会の常識に形を決められる前に、出来るだけ新鮮な、本質を見ぬける姿勢を持つ練習をする。
そんなことを教員としてやってみたい。
もちろん社会に適応しない人間を育てるつもりかと疑問を持つ人がいると思う。適応しないわけじゃない。適応する前に、ワンクッション置く。つまり遊びを作って、ただ呑まれることを防ぐ。
子供、若いものは見ている。
大人社会の矛盾を、弊害を。その彼らと学校という場で、授業や生活を共にするのである。当然自分の矛盾も見透かされるであろう。それも承知の上で向き合ってみたい。それが僕の教員になる理由である。
教員、教師、先生と色んな呼び方があるこの職業。そして近年の少子化に伴ってますます狭き門になっている職業の一つ。まして、学級崩壊や教師の事件や、ノイローゼなど、暗い話に事欠かない話題の職でもある。
なぜ今その職を目指すのか。この大学4年はある意味、就職を決める一生で一番ポイントにある一年であるかもしれない期間を、一般企業に目もくれず追い求めているのか。
それは厳しい就活を避けている逃げなのか、違う、それとも子供は俺が救ってやるという傲慢さを誇示しているだけなのか、それも違う。
それは、僕個人の生き方につながるものがあるからである。
「しっかり物を見て、知ること」それが僕の人生の大きな目標。
そして、多くの人たちと分かち合う中で、豊かさを見出して行く生き方を望んでいる。ではなぜ教員でなければならないのか。
それは、可能性を相手にするからである。
子供とは、可能性である。そして大人が持っている価値観を違った視点で見ている。そんな彼らと、物事を見て、どんな生き方をお互い歩んで行くのかをしっかり見据えることに援助する、伴走者でありたいからである。
そしてそれは同時に、僕という個人に、多くの子供に伴走してもらうことでもある。お互い高めあっていくのだ。
ではなぜ学校か。学校とは一種の閉鎖性を持つ機関である。近年それも少しづつ解け始めているらしいが、一種「社会」という空間、価値体系から良い意味でも悪い意味でも距離を置いているもである。
そこで何をするのか。社会から1歩遠ざかったしてんをもって、生きること、学ぶことをじっと見ていくのである。社会の流れに呑まれ、社会の常識に形を決められる前に、出来るだけ新鮮な、本質を見ぬける姿勢を持つ練習をする。
そんなことを教員としてやってみたい。
もちろん社会に適応しない人間を育てるつもりかと疑問を持つ人がいると思う。適応しないわけじゃない。適応する前に、ワンクッション置く。つまり遊びを作って、ただ呑まれることを防ぐ。
子供、若いものは見ている。
大人社会の矛盾を、弊害を。その彼らと学校という場で、授業や生活を共にするのである。当然自分の矛盾も見透かされるであろう。それも承知の上で向き合ってみたい。それが僕の教員になる理由である。
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