「いじめ」について
2001年4月7日 けいたです。
今日は暖かいですねー。桜吹雪がきれいでした。
春を通り越して初夏ですね♪
今日はいじめについて書こうかと思います。
しかし、この日記言いたい事だけ書いてますね。別に根拠があるわけでもないのに…。
まぁでも楽しんでいるからいいか(笑)
さて、「いじめ」です。
みなさん「いじめ」と聞くと何を思い浮かべますか?
学校でのいじめ、サークル、会社、身内と様々な場面、記憶が思い出されるのではないでしょうか?
そんなに細かく研究しているわけではないですけど、人が集まっているところになんとなく「いじめ」っておきそうじゃありませんか?
じゃあ「いじめ」って何で起きるんでしょうね?人は人を「いじめ」る事によって何を求めているんでしょうか?ここで何を求めているのかという言い方をしましたけど、人が何かしらの行動を起こす時って、何かを求めてませんか?例えば、相手と仲良くなろうとして声をかけたり、遊びに誘ったり、試験に受かるために勉強したり、自分の内面の充実を目的にボランティアをしたりと。
「いじめ」で人は何を求めているのでしょう?
あんまり普段話し合われていないようか気がします。(そうではないのかもしれないけど)よく誰が悪いとか、いじめはどこにでもあるから防ぐ方法を探すとか議論されてますけど、あんまり良い解決策って無いみたいですよね。
「いじめ」は、暴力ですよね。
それが、殴ったり蹴ったりする目で見てわかる暴力と、言葉や態度や、雰囲気などによる暴力もあると思います。結構気にしないけど…。
人が集まれば、必ず「優劣」の関係や、「強弱」の関係、「好き嫌い」の関係が生じますよね。それは自然な事でしょう。俺自身も、常に「優劣」や、「好き嫌い」なんてものはよくやってます。実際小学校の時とかなんかは、ほぼ無意識に「いじめ」に参加してたこともありました。
暴力はなんで出るんでしょうね?そして、人はなぜ、「優劣」や、「強弱」をつけたがるんでしょうね。そうする事でしか「自分」を把握できないのでしょうか?それはつまり「差別」の問題にも繋がっているものではありませんか?個人間から集団単位、国家単位、民族単位などと広がって行けば、それは「差別」に繋がるでしょう。
「いじめ」って単に「いじめ」問題ではなく、「差別」の問題にも繋がると思う。そして、そこには、人間の持っている「人と比べて優位になりたい」や、「自分より下がいると安心する」という感覚があるって事に気がつかないとどうしようも無いと思います。
学校で子供に「いじめはいけません」といくら口を酸っぱくして言っても、「おとなもやっているでしょ?」と聞かれたら応えられないのではないでしょうか?だって社会の中にいじめってありますもん。
誰が悪いという犯人を探しても、その人を罰して終わるだけですよね。その人をいくら責めても、罰しても、被害者の傷は癒えないのではないでしょうか。一時的な憂さ晴らしになったとしても。
ひとつの暴力がもうひとつの暴力を生む。
そして今世の中に暴力が沢山起きているのではないでしょうか。戦争であったり、紛争であったり、人間関係の中であったり、虐待という形であったり、沢山の人達が暴力の中にいるのではないでしょうか?
暴力はなぜ生まれるのでしょうか。
人はなぜ、怒りや恨みを持ったとき、暴力という手段に訴えるのでしょうか。正しい暴力ってあるんでしょうか?
暴力が与えるもの、それは、攻撃、不安、恐れじゃないでしょうか。
「子供のことを考えているから、叩いてでも言い聞かせる」といいます。そういう気持ちはとても良くわかります。言っても言っても相手が聞いてくれない時、手を出して従わせたくなる気持ちが生じてきますよね。
ですが、もっと他に手段は無いのでしょうか?
暴力を使うとき、自分の中にはどんな感情が働いているのでしょうか?そこをよーくみてみないと分からないような気がします。
俺の場合は、「不安」、「怒り」、「恐れ」、「悲しみ」が必ず一緒に出てきます。怒っているのに不安なんです。恐れていて分かってくれない事に対して腹立たしいと同時に、悲しいんですね。そしてぎりぎりまで「暴力」を押さえます。そのせいかほとんど暴力は振るってきませんでしたが、もし万が一、一線を越えてしまったら、どうなるか分からないという怒りの強さも同時に経験しています。その力におびえている自分もいます。
自分の中に「いじめ」る気持ちや「暴力性」があるのだとしたら、あなたはそれとどう付き合って行きますか。それを知って、対処できるように一人一人がなっていくことが、いじめや暴力を減らして行くことに繋がるんじゃないでしょうかと思います。
人は無意識というか気づかないで行動してる時が本当に多いようですよね…。ふー。
今日は暖かいですねー。桜吹雪がきれいでした。
春を通り越して初夏ですね♪
今日はいじめについて書こうかと思います。
しかし、この日記言いたい事だけ書いてますね。別に根拠があるわけでもないのに…。
まぁでも楽しんでいるからいいか(笑)
さて、「いじめ」です。
みなさん「いじめ」と聞くと何を思い浮かべますか?
学校でのいじめ、サークル、会社、身内と様々な場面、記憶が思い出されるのではないでしょうか?
そんなに細かく研究しているわけではないですけど、人が集まっているところになんとなく「いじめ」っておきそうじゃありませんか?
じゃあ「いじめ」って何で起きるんでしょうね?人は人を「いじめ」る事によって何を求めているんでしょうか?ここで何を求めているのかという言い方をしましたけど、人が何かしらの行動を起こす時って、何かを求めてませんか?例えば、相手と仲良くなろうとして声をかけたり、遊びに誘ったり、試験に受かるために勉強したり、自分の内面の充実を目的にボランティアをしたりと。
「いじめ」で人は何を求めているのでしょう?
あんまり普段話し合われていないようか気がします。(そうではないのかもしれないけど)よく誰が悪いとか、いじめはどこにでもあるから防ぐ方法を探すとか議論されてますけど、あんまり良い解決策って無いみたいですよね。
「いじめ」は、暴力ですよね。
それが、殴ったり蹴ったりする目で見てわかる暴力と、言葉や態度や、雰囲気などによる暴力もあると思います。結構気にしないけど…。
人が集まれば、必ず「優劣」の関係や、「強弱」の関係、「好き嫌い」の関係が生じますよね。それは自然な事でしょう。俺自身も、常に「優劣」や、「好き嫌い」なんてものはよくやってます。実際小学校の時とかなんかは、ほぼ無意識に「いじめ」に参加してたこともありました。
暴力はなんで出るんでしょうね?そして、人はなぜ、「優劣」や、「強弱」をつけたがるんでしょうね。そうする事でしか「自分」を把握できないのでしょうか?それはつまり「差別」の問題にも繋がっているものではありませんか?個人間から集団単位、国家単位、民族単位などと広がって行けば、それは「差別」に繋がるでしょう。
「いじめ」って単に「いじめ」問題ではなく、「差別」の問題にも繋がると思う。そして、そこには、人間の持っている「人と比べて優位になりたい」や、「自分より下がいると安心する」という感覚があるって事に気がつかないとどうしようも無いと思います。
学校で子供に「いじめはいけません」といくら口を酸っぱくして言っても、「おとなもやっているでしょ?」と聞かれたら応えられないのではないでしょうか?だって社会の中にいじめってありますもん。
誰が悪いという犯人を探しても、その人を罰して終わるだけですよね。その人をいくら責めても、罰しても、被害者の傷は癒えないのではないでしょうか。一時的な憂さ晴らしになったとしても。
ひとつの暴力がもうひとつの暴力を生む。
そして今世の中に暴力が沢山起きているのではないでしょうか。戦争であったり、紛争であったり、人間関係の中であったり、虐待という形であったり、沢山の人達が暴力の中にいるのではないでしょうか?
暴力はなぜ生まれるのでしょうか。
人はなぜ、怒りや恨みを持ったとき、暴力という手段に訴えるのでしょうか。正しい暴力ってあるんでしょうか?
暴力が与えるもの、それは、攻撃、不安、恐れじゃないでしょうか。
「子供のことを考えているから、叩いてでも言い聞かせる」といいます。そういう気持ちはとても良くわかります。言っても言っても相手が聞いてくれない時、手を出して従わせたくなる気持ちが生じてきますよね。
ですが、もっと他に手段は無いのでしょうか?
暴力を使うとき、自分の中にはどんな感情が働いているのでしょうか?そこをよーくみてみないと分からないような気がします。
俺の場合は、「不安」、「怒り」、「恐れ」、「悲しみ」が必ず一緒に出てきます。怒っているのに不安なんです。恐れていて分かってくれない事に対して腹立たしいと同時に、悲しいんですね。そしてぎりぎりまで「暴力」を押さえます。そのせいかほとんど暴力は振るってきませんでしたが、もし万が一、一線を越えてしまったら、どうなるか分からないという怒りの強さも同時に経験しています。その力におびえている自分もいます。
自分の中に「いじめ」る気持ちや「暴力性」があるのだとしたら、あなたはそれとどう付き合って行きますか。それを知って、対処できるように一人一人がなっていくことが、いじめや暴力を減らして行くことに繋がるんじゃないでしょうかと思います。
人は無意識というか気づかないで行動してる時が本当に多いようですよね…。ふー。
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