今ひとつ小話が思い浮かびました。

『歯車』の話です。
人はよく「自分はひとつの歯車にはなりたくない」と言いますよね。俺も大きな組織のひとつの歯車として、一生働くのって嫌だって思ってました。

 でも、ひとつ浮かんできた言葉があります。
「大きな機械は、たったひとつの歯車が無くなったらしっかり動かなくなるんだよね」って。もし、僕らの体の、ほんの一個の細胞が無くなったら、すぐは困らないかも知れないけど、だからってみんなが細胞なんて嫌だ―っていったら人はおかしくなってしまう…。

 人間って地球から見れば、宇宙からみれば、もっと大きなものがあるのだとすれば、限りなく、いや、確実に「ひとつの歯車」なんだなぁと思います。でも「ひとつの歯車」ではないんです。なぜって?部品ひとつも全体だから…。

 例えば、俺の手が、「ひとつの手」であると同時に、「俺」っていう人であり、地球っていうのは、なにも空、海、山だけじゃない。動物だけでもない。空気も空も海も、人も動物も植物も、核兵器も、争いも恨みも憎しみも平和も豊かさも貧困も、
みーんなひとつで「地球」。太陽も、水、金、地、火、木…の惑星も、流れ星も、ハレー彗星も、無数のちり達も、みんなでひとつの「宇宙」。

 だから、「歯車」を拒否してしまったら、ひとつではなくなってしまいますね。だれか一人でも、抜けてしまったら完全ではなくなってしまいます。

 だけど,歯車っていい印象ではないのはなぜだろう?きっと「歯車」であるという事の反対、つまり「歯車ではない自分」を経験しようとして頑張るのだろうなと思います。そしてどちらかになろうとして頑張り、成功しても、失敗しても満足しないのではないでしょうか。お金持ちになったら、人と違う事をしたら、人生幸せとはすぐに行きそうにないと個人的に思うのですが。

 もし、みんなで「ひとつ」なのだとしたら、ひとつを受け入れない限り、争いは起こるんじゃないかなと思います。個人の内面でも起き得ているように。
 
 ひとつ、変な言い方をすれば、みんな同じだと、人は嫌なんだなと思います。そーですよね。だって自分って特別で在りたいじゃないですか。「これが俺、私」っていうものを持たなきゃ、自分の存在意義って何???ってことになりますよね?

 でもね、ひとつだけ身勝手なことを言わせてください。まだ俺自身も受け入れきれてないんだけど、人っているだけで十分「特別」なんですよね。俺っていう人は世界には2人はいません。俺とあなたは違います。でも「特別」になりたい。どうしてでしょう?そんなことを見つめて行く事も面白くないですか?

 「すべてはひとつ」
なんか宗教とか出てきそうなフレーズですねぇ。
まぁ宗教っぽいからどうこうという判断すらもやめてしまえば、単純に見れますよね。
「ひとつなのかもしれない」って。

 じゃあ、膳←(おっとこれは魚民でよく飲むお酒)だ、、、善と悪、上と下、優と劣、真と偽、有と無…はひとつなの???へっ?って感じですよね。

 いつから分けるようになったんだろう。そしていつから上下、優劣、真偽なんかで人は苦しむようになったんだろう。

 「歯車」である自分を認めたくないのも、でもそうなのかなって思うことも、両方事実。理想と現実もひとつではないですかね。理想があるから現実があって世の中、人間、両方あるから面白いんでしょうね。だってぜんぶひとつだったら経験のしようがないですもんね。だってそれしかないんだから。

 うーん、またへんなところに入りこんできたので、今日はこの辺で。

 以上ふっと浮かんだ小話でした。



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