未熟さ

2002年1月16日
 「おとな」とはなんだろう、「責任」って何だろうと、成人式の映像を機に考えていた。

 そして、自分の未熟さにまだまだ目をつぶっていたことに、ただただ打ちひしがれていた。どうも、人間関係や、様々な問題(と自分が思っているもの)に対処が面倒になったり、不安になったりすると、「削ぎ落とす」という行為に走る傾向がずっとあったらしい。

 他者との意見の食い違い、本心をもっての交渉や、対話が極端に苦手だったのもそう言うところからなのであろう。

 自分の中の不安・怖れを見たくないために、目の前の人との関係を切ってしまうことで、直面しなくて済むようにしていた。

 つまりは、自分から人間関係・信頼関係を「壊していた」ようだ…。

 いくら周りの関係を切り捨てても、結局自分の中にあるかぎり、同じなんだと。そして繰り返せば繰り返すほど、周りを、自分を傷つけてしまうということを、今までいかに見てこなかったのか。

 自分の行動に責任を…と、言葉で言っておいて、なんと自分の未熟さを棚に上げていたことだろう。甘えがあったことだろう。

 そんなことを感じた。

集い

2002年1月3日
 新年二日目。今日は、実家で新年会。
去年はコンビニの夜勤で行けず、久々の参加でした。

 まぁみんな飲む飲む…。思わず酔っ払いのペースについていけず、呆れ返って従兄弟の子供達と遊んで過ごしました(笑)。

 さて、集いっていうものはいいもんですね。
親族集まってゆっくり酒でも交わしながらワイワイがやがや。まぁ、悪酔いしてああでもないこうでもないと始まるのはさておき…、こういう親交をあっためる機会ってなかなか仕事や学校が始まるともてないもんだなぁとつくづく思う。

 今日は、乗り遅れただけあって、ちょっと親戚の中に入り切れなかったなぁ。

 まぁいいとして、今年も集いを大切にしようと思った次第であります。

 箱根駅伝、今年は法政まさかの2区リタイヤ、神大の逆転往路Vと色々波乱の様相を呈していますな。ラグビーも早稲田が勝ったようで☆

 決勝戦見に行くかな!いい年明けじゃ♪

さて、新年早々は頭の回転が普段より鈍っていて何にも出てこないのでここいらで。

新年を迎え…。

2002年1月1日
 みなさん、あけましておめでとうございます。
今年も始まりました。気持ちを新たに生きていこうと思っています。

 新年・カウントダウン・お正月…。テレビを見ていると、本当に人の「意識」の変化というものが、いかにこの世の中で大きな意味をもっているのかを知ることが出来るんだなと思いました。

 新年を迎えると、新しい目標を立ててたり、今年こそは!と張り切ってみたり、新しい可能性を信じたりと様々な「変化」を期待しますよね。

 今までの積もった様々なものを、とりあえず置いておいて、「始めるぞ!」と。年越しの場面を、世界中の人が喜び、騒ぐ。それだけで、確実に世界の人々の意識・空気が変わる。

 今日、犬の散歩をしていたとき、元旦の静けさがとても心地よく、「あー、みんな落ち着いているんだなぁ」としみじみと感動していました。車の音や、ざわざわした人ごみとは違う、新年ならではの平静さはとてもいいものですね。

 さて、なにはともあれ始まりました。今年は、いよいよ大学卒業を控え、社会の一員として自分という存在を賭けるステージへと進みます。

 きっと色々な出会いや、学びが困難や挑戦と共にやってくるんだろうなと思います。まだまだ決めかねていたり、ウジウジしている未熟な自分もいます。不安定な状態は、とても不安を生じるのだなぁと実感している新年です。

 なにが不安定なのか、周りの状況なのか、自分の内面なのか。もちろん自分の内面。「どうすればいいんだろう」と迷いがあります。

 ま、焦らずじっくり今年も進めていこう☆

 気の利いた文章ではないな。うん。今年もよろしくです。
 久しぶりの更新になります。

 ちゃっかり5000ヒット超えてしまってたりして、「あー、書き始めてから沢山見てもらっているんだなぁ。」と嬉しさやなんか恥ずかしい感じもしますね。

 今4年生なので、卒論を作っています。大学生活の学びの集大成です。社会科学部なのに、なぜか卒論は「近代化と教育」。うーん、授業殆ど使えない…(笑)。

 サブタイトルは「子供から学ぶこと・自己知の探求」なんていう、すごいんだかショボいんだかわからないタイトルになりそうです。

 ずーっと、考えてきた教育について、自分なりのものを作っていこうと思っています。先生が「背伸びをする必要はない。自分の信ずるところを書けばいい」という涙がでるような言葉をおっしゃってくれ、「学術論文」を意識しすぎず、楽しめそうです。

 さて、今日は、一冊の本を紹介したいと思います。

「子どもにおそわったこと」 灰谷健次郎著

という書物です。角川文庫からでている薄い本なので、こどもや、教育に関心のある方は、もう読まれているかもしれませんね。

 作者の経験から得た様々なエピソードから、多くの学びを引き出しているんです。子供の自分に向き合う力、観察力、可能性なんかを分かりやすく、しかも鋭い視点で書いてくれています。

 本当に、経験体験は、それを観る人の目・感じ方(心の目)によって様々に映るんだなと思います。そして、その目を鍛えることこそ、お互いに鍛えあう営みこそ,教育なのだと言えるでしょう。

 ふと思い出された話があります。

「知識」と「智恵」って同じですか?と。
 「はい!頑張ります!」

 よく聞く言葉ですよね。自分でも一日「頑張ろう」とか「頑張らなくては…」と何回言っているか分からない位言ってました。

 辞書で調べると、
「頑張る」
?困難に屈せず、やろうと思ったことをやる遂げる。
?ゆずらず自説を主張する。

ということらしいです。
?は、肯定的な印象を受ける言葉です。一般に使われているのはこちらの意味ではないでしょうか。

?も、肯定的に取れます。しかし、行き過ぎると、自分本位、身勝手、過度のとらわれになります。

 頑を張ると書くこの言葉。頑なに張り通す。
これが、自分の中から湧き出てくる主体的な取り組みに作用すればいいのですが、ことに学校では、「頑張りなさい!」と言われたり、いつしか「がんばらなくては…」と妙に自分を追い立ててみたりしてませんか?

 別に頑張ることがいけないといっている訳ではないんです。ただ、「やたら自分を追い詰めて、苦しめていることもあるのではないでしょうか」と言いたかっただけなのです。

 何か物事を取り組むとき、それに全力を注いでいる。それがつまり精一杯取り組むこと=頑張るということなのでしょう。

 しかし、「頑張る」ことを「頑張り」だすと大変です。つまりは、ただでさえ、エンジン全開で走っている車に、もう一つアクセルをつけて思いっきり踏みつけるようなものです。当然無理がでます。

 そして、それが他人から「頑張れ!」と押し付けられた日には、強制以外の何者でもなくなってしまいます。

 多分人は、それぞれなりに日々「頑張って」生活しているのではないでしょうか。人によっては「頑張らない」ことを「頑張って」やっているのかもしれません。

 少し立ち止まって、普段自分の使っている言葉を考えてみるのもいいかもしれないなぁと思った一日でした。

ワークショップ

2001年12月13日
 ようやく体調も回復し、少し卒論も進め、なかなかいい調子じゃない?と調子に乗っていた矢先、不注意で図書館の本を自分の荷物と混ぜてしまってしまいつかまる。ああ…ついてない。

 ぼけーっとしていたんだなぁと改めて思う。なかなか自分の状態を把握するのは難しいなぁ。

 さーて、気を取り直して日記です。
今日は「ワークショップ」というものを調べていました。いつも勉強するっていうと「先生がいて、ほかの人は黙って聞いていて、つまらなかったり、面白かったりする。どっちにしても先生の上手さが問題」なんていうイメージがある。

 それをちょっと変えた企画をやってみようかなと思い立って試行錯誤してます。

 「ワークショップ」ってあまり聞きなれない言葉ですよね。もともと英語で「共同作業場」や「工房」なんかを意味していたようです。そこから発展して、「参加型体験学習」「参加者が自ら参加・体験して共同で何かを学びあったり、作り出したりする学びと創造のスタイル」という風に言われています。

 具体的には、ネイティブ・アメリカンの伝統を取り入れていたり、「個人ー共同体」との軸を扱ったり、精神世界の分野にまで裾野を広げているものとなっているようです。

 本当に簡単にいえば、「人から教わるのではなく、唯一の答えがあるわけでもなく、自分から何らかの目標に向かっていろんなことを体験しながら学ぶ」ということでしょうかね。

 今やってみようかなと思っている事はこんなことです。

「大学生と、中高生が、互いに対等な立場に立って、(勉強)っていうことについて考える」ということです。

 きっと中学生・高校生位って、「なんで勉強しなくちゃいけないんだろうなぁ」と思っていたり、「まぁ、受験もあるしね…仕方ないよ」ということで日々授業を受けたりしているんだと思う。

 そして大学生(一般的に受験勉強をクリアしてきた人)も、本当なら「勉強」に対して自分なりのアプローチをしていてもいいはずですが、意外と「単位をとる」「ノルマだから」という受動的な理由で取り組んでいるのかもしれません。

 その中で、誰か先生のような人に「勉強しなさい」「勉強は楽しいものです。」「いつか役に立つからやりなさい」といくら耳にタコができる位にいわれつづけても、本人の自覚は目覚めないんだろうなぁと僕自身振り返って思います。

 そのくせ「勉強つまらない」だぁ、「なんでやらなくちゃいけないんだ」とか不満ばっかり。

 なら自分でトコトン「何でやんの?」「どうやったら面白いかな?」と、また「勉強についてどんな風に感じているの?」ということをみんなで率直に語ろうよというアイデアに至りました。

 多分誰も「答え」は知りません。
誰も教えてくれません。だけど、みんな体験しているものだし、何か感じているものです。年齢や性別、学歴といったものは関係ありません。

 そんな状態から、グループで、また個人で普段あんまりやらない「問いかけ」の時間を作れたらなぁと思います。

 まぁ実際どうなるか全然わからないんですが。(笑)

 いやー、なんかワクワクしてきた☆

[こどもの詩」

2001年12月12日
 年末、師走、忘年会の連続、急激な冷え込み…体調を崩すあらゆる条件に見舞われ、案の定寝込んでしまった。

 思い切って一日休みを取るということは、こんなに大事なのかとつくづく思う。日々の健康管理が行き届いていればなんということはないのだろうが。

 さて、今日は、随分前に購入した本を取り上げてみようかなと思います。

「こどもの詩」川崎 洋著

という主に小学生の詩を集めた本です。

その中から、一つ引用してみようと思います。

”私のお母さん”
私のお母さんは かた耳が聞こえない
小学校の時からだ
電話や 私の話がよく
聞こえなくて とっても不便そう
今までいろんなこんなんを
のりこえてがんばってきたお母さん
でも お母さんは毎日明るい
私は どうしてもお母さんの耳を
治してあげたい
私のお母さんのために役立ちたい

 という詩です。
どうですか?小学校4年生の作品だそうです。

 子供の純粋で、まっすぐな願い、祈りが
聞こえてくるようです。

 治せる・治せないではなく、「救けたい」
という彼女の想いは、きっとお母さんを
救っているのだろうと思います。

 振り返ると、本当にピュアな想いが
どれだけ「どうやって?どうして?できるの?」
という思考によって拒まれているか。

 この間知り合いが、FF9をクリアしたとき、
ジタンが「人を助けるのに理由なんているのか」というセリフをいっていたよというメールをくれました。

 もちろん、実際的な手段・方法も社会には
必要なんでしょう。

 しかし、人の内面にある、特に子供の発する
無邪気・無謀とも映るそうした姿には心を打たれます。

みなさんは身の回りにいる子供からどんなメッセージを受けていますか?

「教」と「育」

2001年12月7日
 ゼミ飲みと疲労により体調を崩した。
うーん、この時期の健康管理は特に気をつけないと。

 先日教職の授業で「教」と「育」の話を先生が話されていたことを思い出しました。

 今の教育って「教える」事ばかりに気を取られて、その子供自身の「育」の部分をあまり考えないよねという話だった気がします。

 そういえば、幼心に中学生位のとき、「知識は、それを使いこなす人間の幅の広さがないと意味がない」なんて偉そうなことを一人で思っていたなということを思い出しました。どうしてそういう考えをもつようになったかは忘れてしまいましたが。

 どんなにすごい知識を得たって、それを使う人間の心次第で変わるんだって事を、知ってか知らずか当時考えていたのでしょう。それは今にも影響を与えているんだろうと思います。

 世の中にある、様々な知識―人文科学・自然科学・社会科学―を、詰め込もうと思えば、言葉の上での理解はきっと出来るのでしょう。

 世界情勢がどうなっていて、ものの理はいかに定まっていて…などなど。

 きっと僕にとって、そうした知識としての理解より、内面性、つまり本当の理解を望んでいたのかもしれません。

 あることを知り、そして使いこなせる人間の器。それがきっと欲しかったものなんだろうなと今は思います。いくら本を読んでも、自分の中に興味や関心が無ければ、全て流れ去ってしまいます。

 逆に、自分が内面から必要としたり、欲したりしたものって、知らず知らずのうちに身につきます。そういえば、今まであまり「これ!」と与えられてものって好きでは無かったなと思う。学校の勉強や塾に行ったこと、ゲームや仲間遊び…。全て自分の中に準備が出来てからやっていたような気がする。

 「教」は、ともすれば、誰か他の人が決めたものをカリキュラムという形で与えられるものであるなと思います。

 一方、「育」って、自分の中の準備、すなわち、あるものを自分の中に取り入れる時の内面的な受容なのかもしれない。

 きっとそれは誰かが作りあげるものではなく、自然に自分で何かを吸収する準備をしていく過程のことではないかなと思う。

 大学に入って、勉強っていう事に本当に悩んだ。なんでこんなに興味が持てないんだろうと。なんで日々の生活の中に溶け込んでこないのだろうと。

 自分にとって、大学という場で学問に励むという営みは、ひょっとするとまだ早い、準備が出来ていなかったのかもしれない。

 ただ、大学の中で、様々な人間に出会い、集団を形成し、その中で体験してきた過程で僕の中で「育ってきた」ものがあるとすれば、人に対する興味だろう。

 どんな組織でも、どんな活動でも、「いかに多くのメンバーで、いかに充実度を高め、一人一人の笑顔を引き出すか。居てよかったと思える仲間作りができるのか」という事における学びの準備は確実に整い、それなりに自分で必要な知識や、体験を積んできた。

 誰かに与えられたものではない。自分の中から出てくるもの。人の評価を求めるものではないもの。そうした「内なるエネルギー」とでもいうべき固有の現れ方こそが、「個性」というものなのかもしれない。また、人の力を超えたものから与えられた贈り物なのかもしれない。

 「育」を育てるっていうのは変な言い方だ。
「育」は、「育てられる」ものでなく、「育つ」ものという風に理解すると、おのずと人との関わり、教育と呼ばれる営みにも変化が訪れるのではないだろうか。

 極端な話、人の成長は人のものなのだ。
人にコントロールされる事ではない。人に捻じ曲げられたりするものでもない。捻じ曲げるべきものでもない。 

 知ることなんだと思う。自分の中のものを。可能性を。それがきっと何よりの教育なんだと思う。
他者に対して有効な働きかけをと意気込むのも、実は本末転倒なのかもしれない。

 かとって、無責任に放任するのではない。
「観る・聴く・関わる」ことなんだと思う。
ただただ、目の前にいる相手を、自分を。

 そこには、期待や、苛立ちや、様々な自分の中の価値観・こうあるべきという判断が生まれる。
それはそれ。人にぶつけるものではない。

 だからこそ、「忍耐」って大事なんだ。
見守ること、その人の「成長する力」を信じてただ待つこと。その中に、当然自分のエゴの声や、感情を観る。それすら、自分の成長を信じて見守る。

 余りにも、分かっているようで分からないことが多すぎる。言葉が多すぎる。

 

素直な気持ち

2001年12月5日
 拙い日記を読んで下さっているみなさん、お久しぶりです。更新がまたまた滞ってしまっていました。いつもの「忙しい病」に自らかかってしまいました。

 さて、今日のお題は「素直な気持ち」です。
うーん、なんて純粋な言葉…(^−^)なにか中学生のころに戻ったような「きゅん☆」となってしまう響きさえするこの言葉です。

 みなさんは、日ごろ、「素直な気持ち」で生きていますか?身近な人たちと素直な自分で関わっていますか?

 どうやら僕自身、この問いには「No」のようです。好き嫌い、得意苦手、喜怒哀楽などなど、様々な感情や感覚を日々経験していますが、それを100%素直に、正直に感じたり、伝えたりしてはいないようです。なぜって?本当の気持ちを知られてしまうと「恥ずかしい」から。「情けない」から…。

 隠そうと、無視しようと自分の中にある本当の「感情・気持ち・想い」は「ある」んですね。時にそれに気付きさえしないときだってある。

 本当は言いたかったこと、伝えたかったこと、したかったことなどを、「制限」する何かが、僕の中にあるんでしょうね。

 どこからともなく「止めておいたほうがいいよ」とか、「そんなみっともないことするなよ」などという囁きが聞こえてきます。

 何かが邪魔をする

 自分の中で壁を生む その壁の向こうには

 どんな世界があるのだろう

 分かっている その先にあるものは

 だけどいけないんだ

 壁を壊すのも 作るのも自分次第なのに

 塀の中にいることが安全だと
 
 いつしか思うようになってた

 その先には 何があるのだろう

 分かっている その先にあるものは

ふー、人間って複雑なものですな。
さて、明日の英語の予習をしよっと。

明日一日、素直な気持ちで過ごそう。
 今日は、サークルのミーティングがあった。
後輩達の主導で、今回の企画は進められているのだが、如何せん「自分がやりたい!」のタイプなので、口出しをしないでただ黙って観る、聴くということが何より困難なのであった。

 黙り、そして周りの進行に自分の波長を合わせて聴く、観るには、その相手に対する全面的な信頼が必要であると感じた。だいたいそわそわして自分が口を挟みたくなる時、いらだっていたり、焦っていたりと自分の内面の議論に花が咲いてしまうのである。

 自分の中では、企画当事者から、次のステップへという位置付けで、「組織・仲間への信頼」「黙る・観る・聴く」ことの二点に今回の主眼を置いている。もうこれは、本来のうちのサークルの企画の目的や、会の活動目的を逸脱している。まったくの自分本位な目標なのである。

 むしろ、早く抜けるべきなのかもしれないとも思うほどである。しかしどうも止められないのは、日々、一活動毎にレベルアップしていく後輩達を観ることの喜びが感じられて仕方が無いからである。

 そうして、ある種の会の活動に対する「執着」という本来避けるべき矛盾をあえて抱えながら、今回は挑んでいる。そう挑戦なのである。

 第一線を退いた者として、何が出来るのか。後輩達に果たして何が残せるのだろうか。

 もはやそういった問い掛け自体、彼らにとっては無用のものであるかもしれない。それは、親切心という響きの良い「おせっかい・偽善行為」なのかもしれない。

 しかし、この活動に関わりを持った以上、自分自身として学べることは全て学びきる覚悟である。常に「自分の行為は偽善か…」「本当にみんなのためになる関わり方とは何なのか、そしてそれは今となっては無力なのか」という問い掛けにあえて直面してみよう。

 それには、会員達とより密にコミュニケーションをとることが重要であり、一参加者である以上、自分の中にあるもの(思考であれ、感情であれ)を素直に表現していくことが自らに課した課題である。

 ボランティアに関わることは、ある種自分の中の「偽善」との格闘、直面である。果たして、人の人生における援助とは、可能なのか、可能ならばどんな関わりなのか。少なくとも形式上、援助する側に立つ自分という人間の中に「やってあげている」という傲慢な気持ちが深い泥沼の底にうごめいてはいないだろうかと、瞬間瞬間に認識し、自覚し、落としていくことが大切だと感じる。

 そして、意思を持って参加すること。
経験や、知識は様々であり、自己主張の得意な人もいれば、じーっと周囲の状況を観察し感じることに長けている人もいる。企画を始めるにあたって集まったその「個性」の集合そのものが、すでに集団であり、ダイナミクスが働いているのである。

 どうか、今回関わる会員のみんなに、そのプロセスにおける学びを沢山感じてもらいたい。一緒に経験していきたいと思う。

 今日は、そんなことをみんなから学んだ。
「黙り、観て、聴く」と、声無き声がかすかにではあるが、聞こえてくる…。

フレーベルに共感。

2001年11月27日
 手元に幼稚園の創始者として知られているフレーベルというドイツの教育者の書いた代表作「人間の教育」という書物がある。

 彼は、その書の中で次のように述べている。
「遊ぶということと、話をするということは、子どもが現にそこにおいて生きているところの元素である。」そして、「遊戯することないし遊戯」は子供にとって(特に幼児期)「最高の発達段階である。」と言っている。

 また、「力いっぱいに、また自発的に、黙々と、忍耐強く、身体が疲れきるまで根気よく遊ぶ子供は、また必ずや逞しい、寡黙な、忍耐強い、他人の幸福と自分の幸せのために、献身的に尽くすような人間になるであろう。この時期の子供の生命の最も美しい現われは、遊戯中の子供ではなかろうか」とも述べいてる。

 まさに、同感である。
今までフレーベルに関する知識は皆無で、名前くらいは聞いたことがある程度だったが、少し読んでみて共感した。

 なぜか、自分自身の日常の体験から学んできたことと一致する点が多いからである。

 教員から保育士への方向転換をするきっかけになったのが、「ベビーシッター」のバイトを知人の紹介で始め、月平均5日〜9日程度の頻度で下は一ヶ月、上は10歳まで、いわば保育園の乳児クラスから、小学校4年生クラスまでの子供と関わっている。

 しかも、まる一日「遊び」を体験するわけである。学校の先生とは違い、やらなければならないこと、教えなければならないことは殆ど無い。ただただ子供の遊ぶ姿を、見守り、子供の様子に応じて一緒に走り回ったり、ゲームをしたり、絵を書いたり折り紙を折ったりするわけである。

 多分こんな経験をするのは、自分が親になってからも難しいのではないだろうか。本当に子供と一日フルに遊びに付き合うのは、公園へ行っても回りの親は大体ベンチで座っているか、注意したり起こったりヤキモキしている程度である。

 「遊戯」が子供の内なるものの自由な表現」とフレーベルは言っているが、本当にその通りなのだ。
子供の生活は「遊ぶ」事がほぼ全てであり、ご飯を食べるのも寝るもの惜しんでひたすら遊びつづける。

 そして、その自由奔放な姿に、「大人」は子供の可愛らしさを感じてみたり、子供のわがままさや、幼稚さを観ていたりする。子供の遊びを通じた表現には、私達が学べることが無数にあるというのに。

 「かわいいねー♪」と言っていた次の瞬間、「ダメでしょ!、危ないんだから!」と鬼の形相になる。

 走っていて転ぶ。身の痛さよりも、その衝撃に恐怖感を覚えた子供、泣くことによって親からの安心感を受けようをいう表現に対し、「どうしてそんなところで走るの!泣かないの!言うこと聞かないからそうなるんでしょ!」と、意味不明な「おとな」の論理で責められる。

 まして、現実的に子供が安全に遊べる環境が少ない。道路へ出れば、「走らない!」「危ない!」。公園へ行っても「そこは入っちゃダメ」「滑り台を反対から上ったらダメだよ」と制限だらけ。

 子供の自由な表現が、「おとな」の価値判断に触れてしまうことが、殊更多いおおいようです。「親心」などといいますが。

 子供の遊戯を通した自由な表現に、私達はどれだけ着いていけるでしょうか?「常識」「ルール」「価値観」を多く抱えた私達が、「内なるもの、必要なもの」を自由に表現する、いわば異次元の存在とも見えてしまう子供と、どれだけ本当にコミュニケーションがとれ、理解できるのでしょうか。

 うーん、最近文章がまとまらないなぁ。ご勘弁を…。

思うこと。

2001年11月22日
 最近思うことがあります。
何か物事をやろうと思ったときの基本的思考は、以下のものに収束されているような気がしています。

『5W1H』です。

そう中学生の英語で出て来そうなフレーズです。
意味もその通りで、

What=何を
Why =なぜ?
When=いつ?
Where=どこで
Who =誰が

How =どのように?

基本的な以上のことが、組み立てられていれば、大抵の企画なり行事なり、友達と旅行へ行くなりの集団行動はとれるはず。

何かをしようとしている時、「何をしていいの?」などという質問は上記のツールを使えば、それぞれの役割・関わり方で自ずから導きだせるという結論に達した。

あとは応用だ。
一人が分かっていても、みんなが把握していなければ、集団としては上手く行かない。では、みんなが集団行動の進行であったり、注意点であったり
を徹底させるには何をすればいいのか。

「何を、なぜ、、いつ、どこで、誰が、どうやるか」さえ、頭に入っていれば必ず何らかの対策は打てる。まして、個人の中でもいくらでもシミュレーションできるはず。つまり、「聞いてない」や、「分からなかった」では済まされない。

かく偉そうにいう僕自身も、殊に「なぜ?」の部分に関しては、最近になってやっと気付いてきつつある部分である。「いつ、どこで、だれが、何を」レベルの話なら、飲み会幹事レベルの経験で積める。しかし「なぜ?」は考えない。

「なぜか?」。普段の生活において、「なぜ」という質問はせいぜい子供が使う位で、大人からしてみれば「面倒」なもんである。「なんでこれやんなきゃいけないの」という問いに、本当に向かい合っている教師はどれだけいるだろうか。

いつもやっているから、常識だからでは、いつまでたっても本質は理解できない。(多分)大学生は、「なぜ?」を本当に大切にしなければならないような気がする。社会に出れば、否応なしに「習慣・前例」で動く「なぜ?」が通用しなくなるのではないか。いつまでも「なぜ?なぜ?」を唱えるのは、「子供」と言われ、社会規範に添えない落ちこぼれ
のように扱われるかもしれない。

 しかし、今だからこそ、徹底的に「なぜ?」を問うべきである。それが、実社会へ出ることを拒むモラトリアム的思考であるという反論を僕は恐れない。

 役職や立場が人を作るという面もある。
それは、単に必然的に「5W1H」を考えなくては、またその応用を「自分の個性」というアレンジを加えて、実践しつづけた結果、実についてきたある種の習慣なのだ。

 かく偉そうに言っている僕も、まだまだ半人前。
おそらく実社会で、通用するだけの知識もなけれな、技術もない。

 しかし、大学生活いや、その前の高校や中学を通じても、そうした経験の積み重ねや、訓練の大きさを実感している。

 全体をまとめる側、そして個として参加する側、どちらにせよ、「5W1H」を念頭において動ける人間とは、俗に言う「気配りの出来る人」「全体をまとめられる人」として見られるのであろう。

 つまり、「人間の人格」や、「生まれ持っている才能」が全てそうしているわけではないような気がする。「経験の中で、漠然と必要なツールをどれだけ身に付けてきたか」という事に大きく依拠しているのではないか。

 サークル・ゼミレベルでも、色々ある。
うーん。何か微妙な文章になってしまった。
今日は以上。

ファウスト

2001年11月20日
 今ゲーテのファウストを読んでいる。
ゲーテと言えば、ダンテ・シェイクスピアと並ぶ、世界三大文豪と称されるほどの人物である。

 大学のゼミでお世話になっている先生が、よく授業のなかでゲーテを取り上げていた。それを聞いて面白そうだなぁと思って手にとった書物が「ゲーテ格言集」「ゲーテ詩集」であった。

 もともと文学や詩集などは殆ど読んだことがない無教養人の僕であるが、今回は珍しく「うおー!」という興味と共感(と言えるほど理解しているのかは甚だ疑問であるが)があり、響いてくるのである。

 ゲーテの作品を読むと、自然や、宗教性(○○教、〜派というつまらないものではないもの)をとても興味深く考えさせられるのである。

 物質が溢れ、人々の精神が弱まりつつある現在、ゲーテから学ぶことは沢山ありそうである。

 そして今目にしているのが「ファウスト」という本。舞台作品のようである。まだ始まって30頁ほどしか読んでいないのだが、{おっ!?」と惹きつけられた個所があった。

 主「人間は、努力をする限り、迷うものだ。」

と主(神か)に言わしめている。

 たったこれだけのフレーズではあるが、ものすごい深さをもっているのかもしれないと、直観的に感じた。

 なぜか、丁度、今僕の中で「頑張る」という事が大きなテーマとなっているからである。つまり、「頑張る」という自覚症状が無いままに、「頑張って」いるのである。

 そして自覚症状が無いままに「頑張り」を続け、「もっと、もっと」と自分をせきたてる。そして気付くと身も心も疲れきっているのである。そうしてやっと気付く。「あぁ、飛ばしすぎていたんだ」と。

 車を発車させてすぐに1速から5速に無意識に変換しているようなものである。エンストは免れ得ない。

 どうしてそのようになるか。自分に問う。
結論。「周り、仲間」を実に信頼していないのである。常に「自分がやらなければ…」とある種強迫観念に捕われるのである。しかし、本人には自覚が無い。むしろ周りの為、誰かの為という、これまたある種のエゴから発生している声に機敏に反応しているのだ。

 しかも悪いことに、周りの人たちは、そんな自分の「頑張り」を誉めてくれたり、感謝してくれたりする。

 「信頼」が無い関わりをしているのにも関わらず、感謝されてしまう。一番頑張ってたよねと。

 うーん、微妙である。つまりそこには、自分がいなければダメという訳の分からん「存在感」のようなものを自分に持たせることにもなり、それが長引くほど、組織や、人間関係において「依存・癒着」は強まるのである。

 口うるさいOB・OGなんかの存在はそんなところから来ているのかもしれない。「俺が、俺が」といつまでもやっているのは、自分の存在が証明したいからかもしれない。

 話を戻す。迷うのである。頑張れば頑張るほど、「どこまでやればいいか…、どんなことが起こるのか…、足りないものは何か…」と。

 政治や経済の話を聞いたり、読んだりしていると、みんな「頑張っている」のである。精一杯やることはやっているのではないか。教育だってそう。

 でも、どうやら世界情勢は決して良い方には向いていないのではないか。一番分かり易い例は、環境=自然である。人がどんな美辞麗句を並べたところで、地球の自然、資源は破壊され、汚染されている。

 どんな構造改革をし、人々の気持ちを惹きつけようとしても、壊れるものは壊れ、治しようの無いものは、厳然として僕たちの周りにはあるのだ。

 人は、何を頑張っているのか。努力しているのか。その訳を、本質を見極めていくのは、それぞれが自分自身にしか出来無いことなのではないだろうか。

 「ファウスト」さらに読み進めて見たい。

観念と体験(感情)

2001年11月19日
 教育関係の文章を読むと、「〜すべきである。」という文面や、「○○するのは、人類が長い歴史の中で築いてきた伝統・文化・風習であるのだから、それに従うのは当然である。」と言うような書き方が多いように思える。

 そこで、伝統や文化の生まれくる過程と、既に出来あがったもの,そして「伝統」「文化」を一つのルールのようなものとして扱い、普遍的に適用しようとする動きとを考えてみたい。

 「目上の人を尊敬しなさい。」といういわゆる常識があるとする。それがひとつの暗黙のルールとするならば、それを武器に年下の後輩に対し「俺は先輩なんだから尊敬しろ。」と言うとしたらどうか。あたかもグローバリゼーションの力で、アメリカ方式を押し付ける普遍主義のような一方通行の関係を築く事になるだろう。

 伝統や文化という人々が、それぞれの生活圏、文明圏で築き上げてきた、この尊い相互共通認識の体系は、始めから「ルール」のような感覚で強制を強いるものという一面的なものではなかったと推測してみた。

 なぜか、そこには一人一人、部族・民族、国民の感情を含めた、「伝統」「文化」に対する表面的ではない体験,思いが内在していたからに他ならないと思うからである。

 孔子の「論語」が、今でも読み継がれ、それぞれの視点で評価されたり、取り上げられるもの、今現在の生活において、「あぁ、そうなんだなぁ」と実感を持てる場、経験をした人のみが本当の意義を見出せるのではないか。

 歴史を見渡し、「我が国民は、長い歴史の中で築いてきたものを守り、言い伝えなければならない」という論も最もであろう。しかし、自然科学のように、観察を通じて得られた一つの法則性を、そのまま現在を生きる人々に適用「させよう」としても、体験や感情が伴わなければ、真に理解し、消化し、内面化させることは困難であると考える。

 時と共に、価値観や常識は変化する。時に道徳も表面的な変化をせざるを得ないのは、それぞれの「現在」を生きる人間の経験が違い、環境の変化の中で変化せざるを得ない一面があるからだろう。

 道徳や、倫理、価値観、思想といったものは、単に観念や、表面的な言葉だけで理解し得るものではない。

 今、人々のモラルが低下していると言われているもの、つまりは「体験・感情」として「なんでもあり」的な経験を人生の中で培ってきたのだろう。

 謙遜や、節制、共同体意識などは、現に私達の中に「維持し、語り継いでいくもの」としての認識・感情が失われつつあるのであろう。

 物質的豊かさを経験し、それに飽き始めている現在、それまで経験してきたものとは何だったのか、そして、経験し得なかったものとは何だったのかを知る必要があるだろう。

 私達は、本当に必要なものしか自分の中に取り入れないのではないか。それが表面的であれ、本質的なものであれ、善であれ悪であれ。 

エゴイズム

2001年11月15日
 エゴイズムとはなんだろう。

分かりやすいエゴと、分かりにくいエゴがあると思う。

 前者は、人に明らかな違和感・不快感を与えるであろうもの。または、自覚症状を伴うもの。

 後者は、本人にとって善意を伴うものである。つまり自分のエゴティックなものに気づかず、「良かれと思って、相手に何か働きかけるが、実際のところ自己満足のため」に行われる行為に内在する。

 この2つがあると思う。

 そしてこの両者の判別が、かなり難しいことは前々から気づいている。ともすれば、自分の行為を「他人のため」という大義名分を掲げて、あたかも完全に正しい行為であるかのように振舞う。

 身の回りをよく見返してみるとありませんか。
「気持ちは嬉しいんだけど、おせっかい」とか、「なんか取引している感覚」とか、「必要としていないのに、無理に押し付ける」など。

 「本人は良かれと思っているんだろうけど、ちょっとねぇ」って一度は思ったことありません?

 そして、ひょっとしたら自分も?と思ったことがどれだけありますか。

「まさか、自分はそんなことしているつもりはない」と思った人。結構やっているかもしれません。

 僕もやってます。後で気づくことが多いですが。

 「普遍主義」を謳う文明,制度は時として、其の中にエイゴイズムを潜ませています。

 「親の子を思う気持ちから出るしつけ」
これもまた、多く自分の達成できなかったことを子供に期待し、幻想を抱くというエゴにつながります。
 児童虐待は、エゴ以外の何者でもないでしょう。
「この子が私をそうさせた」ともし言い張ったとしても、幼い子供に、親の様子を伺い、わざと仕向けさせるような思考能力があるでしょうか?

 テロだってそうです。

 「価値観」は多様です。一人一人違うとも言います。そこが「特殊」であるというのなら、「価値観」に基づいたある種の他者に対する強制は、エゴテックなものなのかもしれません。

 「価値観」が、主に思考から生まれる捉え方、考え方だとしたら、「心」は感情でしょうか?精神は?

 科学的な観点からは、「心」、「感情」、「精神」は測れない(測りにくい)ものではないでしょうか。

 人には、思考と感情(心・精神)があると思います。頭で考えられる部分と頭や言葉ではなかなかつかめない部分。

 この二つを、科学的に数値化した「客観性」もしくは「普遍性」という一本のモノサシでは捉えきれないのではないでしょうか。かくいう僕も今、思考の面で文章を書いていますが。

 心理学が起こり、発展してきています。「脳」の研究も盛んで、人の心的動きを把握しようと懸命になっているのではないでしょうか。

 でも実際、自分という一人の人間の内面も僕たちは知ることができないまま、一生を終えるのでしょう。知る必要もないのかもしれません。しかし、自分のことを知ることが出来るのは、多分自分ひとりなのでしょう。

 エゴ。不思議なものですね。
ただ、あるんだなと観察するだけで、表面化しないエゴの働きを知ることができないかなぁ。

後輩は逞しい!

2001年11月14日
 「だいありーのーと」で、爆裂した個性と、長年培ってきた文章力で読者を魅了してやまないたけっちの日記に紹介してもらった。

 いやー、なんか気恥ずかしいけど、嬉しい。
たけっちありがとう。

 意外だったな、「指導者論」的な考えが一致していたんだね。さすがこの一年いやそれ以上、ゼミとう最高の自己実現の環境で、共に苦楽をともにしただけあるね(笑)。

 俺って周りの人間に非常に恵まれるらしい。
たけっちと組んだのも何かの縁だろう。あれは、まさに最強コンビだったね。影響を受けまくってしまった(笑)他の幹部も、個性的な奴らばかりで、おまけに後輩にも恵まれた。

 さて、後輩の話が出たところで、本題(やっとか)。

 先日の後継者育成についての話から、一人で爆走して、企画レジュメを量産しまくっていたが、今日そのサークルの会議があった。

 「後輩とは逞しい!」と痛感した。
作ったレジュメを配り、個人的に企画に参加しないかという働きかけをしたところ、もうやる気満々、ガンガン広がる構想、鋭い着眼点が出る出る。

 「おっ!」もうこんなに出来るのか!と驚いてしまった。ある意味、想定していたステップの半分を終えてしまったかのような感覚を覚えた。

 先輩の後姿を見て育つと言うけれど、本当にそうなのかもしれない。百回同じことを言って聞かせるよりも、一回実際にやってみせろというような言葉を思い出す。

 こちらの熱意、姿勢、苦悩、さまざまなものを、後輩は感じているようだ。企画の参加を頼んだときの「もちろんです。協力させてください!」という返事や、「4年生に沢山世話になったから、もちろんやりますよ!」という言葉をもらった。

 信頼とは、こういうことを言うのかもしれない。
それぞれがそれぞれの魅力と共鳴し、高めあう。自分に必要なものは容赦なく取り入れ、真似し、改善する。そこに下手な戦略や、裏工作のようなものは要らないのかもしれない。

 正面から後輩と共に進んでいくことを選択してみようと思う。後輩が安心して「挑戦」「工夫」「失敗」が出来るように。そして、先人として、共に経験すればいい。時に先回りし、「ここに落とし穴あるでしょ?」と一つ一つ確認しながら。

 人を育てるということは、決して意図的に一方的に行うものではなく、相互の交わりの中から個人個人の内面に沸き起こる「感動」であり、「向上心」「探究心」が可能ならしめるのかもしれない。

 これらのことは、単なる学生サークルの運営の域を越えて、きっと教育・人の成長、援助なり、幅広く応用が効くものであろう。

 やはり、僕は図書館にこもって書物と格闘して学問的見解を得るタイプではないようだ。あくまで実践、体験から多くを吸収していくのが向いているらしい。

 今後さらに精進します。
 今日は、某友達と飲みに行き、ボランティアの活動について語り合った。非常にためになった。

 自分たちの幹事時代に出来なかったこと、ボランティアサークルの構成員によって、会の雰囲気、色が劇的に変化していくこと、個人の関心、全体の意識、方向性の関係など、多岐にわたった。

 一線を離れ、ブツブツいうことを始めてしまった古参会員という捉え方もないわけではないが、これも自己研鑽ということにしておこう。

 前述した通り、僕の所属している団体は、学内でも「ボランティアサークル」という位置付けであり、且つ、法務省という国の公的機関の下で活動させてもらっている。ある種特殊な団体である。

 さらに、活動の対象となるのは、いわゆる「非行少年」(この言い方が果たしてどの程度的確なのかは疑問)である。つまり法制度の下で言う「保護観察」や、更生処遇中の少年と関わるという、単なるお遊び・企画団体とは大きく異なる。

 本来、専門的知識や経験を有する職の方々が、各更生保護施設、養護施設、職業訓練校などで関わっている現場に、「少年と年が近く、同じ目線で」という「若さ」を大きな力として、協力させていただいているのである。

 ボランティア=余暇の有効利用的な考え方のみでは通用しない部分がある。

 活動に関わりながら、人との関わりの難しさを学んだり、相互援助ということを考えたり、とても多くの可能性を秘めていることは間違いないのだが、運営・企画などの面で非常に個人の意思、熱意が厳しく問われてきている。

 少年に対する継続的支援や、会員の研鑚活動・レベルアップを常に念頭においていく必要がますます必要になっていくよねという話をしていた。

 ボランティアは、聞こえはいいが、本当に多くの矛盾を抱えている。それでもやっていくには、「意思」の持つ意味は大きい。

 人に関わる活動で(何でもそうであろうが)、「なぜ?」という問い掛けをし続けることは非常に大切なことだと思う。その過程の中で、経験したり感じたりすることが、ボランティアとして関わる人にとっての学びであり、活動の向上につながっていくのであろう。

 なんだか独り言のようなものになってしまった。

グループワーク

2001年11月9日
 いやー、寒い。いよいよ冬を感じさせますな。
大学4年なのにも関わらず、来年3月のボランティアサークルの企画を裏方でやろうということに先日決まり、日々自己研鑽に励む毎日を送っています。

 ずばり今回のテーマは、「なにごともなさずして、すべてをなす。」ということです。

 企画自体、後輩に全部実働は任せるつもりで進んでいて、4年の老体は、あくまでその進行が上手く行くように、また、より深い問い掛けを持ったものとなるように、それとなく、またはあからさまに後輩一同に示すことにしました。

 矛盾しているような気もしますが、つまりは、後輩自身の思考・判断・感情で物事をより多面的に観て、全体を仕切っていくという状態にしたいということ。

 うーん、自分でやるのが一番簡単なのだが、世代交代の波は確実に迫っているので、いつまでも口を挟むことは出来ない。そこで、完全オブザーバーとして参加することになったのだが、これが難しい。

 多分に、自分のやり方を真似させるようにしてしまう可能性もあり、独り善がりになりかねない。

 そして、後輩自身が、自分で気づくというプロセスをどう創り上げていけるのかということに、非常に苦心している。
 
 ルソーの基本的な教育観からすると、明らかに人工的であり、その人の内発的な成長を重視しない立場にあるのかもしれない。しかし、技術であれ、基本的組み立て方であるような、ある種「慣れ」を必要とするもの、そして「経験」の数を必要とするものに関しては、現段階で先人が思いつくことを、なるべく多く伝えていくことが、必要ではないかという結論に至った。

 グループワークという社会福祉の分野から言えば、集団援助活動という、「集団の力」を利用して、「人が集まり、そこで一つの目標に向かって各人が起こす相互作用を通じて、望ましい影響を与え合う」というもの。対人援助活動では、他に「ケースワーク」と言われる個別援助活動や、地域援助活動という「コミュニティー・ワーク」もある。

 集団の中で、各人を相互作用によって高める。
それは、今まで大学で関わってきた団体で、常に意識してきた問題ではあった。

 しかし、なかなか難しい。特に興味・関心がバラバラで、相互に尊重する態度がないグループだときつい。

 まぁ今回は、ボランティアでもあり、各人意識も高いので、大学生活の最後の期間をかけて、朝鮮していくつもりである。

 どこまで、人を、自分を見ていられるか。
全体の中の動きをどれだけ把握し、適切な援助となりえるのか。

 うーん、かなり楽しい5ヶ月になりそうだ。

教え子の活躍☆

2001年11月7日
 いやー、久々に母校のHPを見ていたら、教育実習中に担当していたクラスの子が、陸上の県大会で優勝していたことを知った(母校で初)!

 ちょっと個人的にも話したことのある子で、とても一生懸命に部活も、進路のことも取り組んでいた生徒だったので、非常に嬉しい!

 うーん、こういうのが学校とかで若い力と接していて一番嬉しいというか、あー、力を発揮できたんだねと素直に喜べることなんだろうな。

 なんか勇気付けられてしまった。なかなか高校へ足を運ぶ機会はないから、この場を借りて(意味がないが)「おめでとう!」の言葉を贈りたい。

 俺もしっかりやらなくちゃなと改めて、実習中に感じたこと、自分が生徒たちに言ってきたことを自分に問い返す。本当に、自分が発しているメッセージって、自分が学びたいことなんだなぁ。「何でも最後まで懸命に取り組んだものって、あとに自信になるんだね。最後まで走ってください。」なんてことを書いた覚えがある。

 すごいなぁー、本当に悔いの残らないように、そして最高の結果を手にしたんだなぁ。(羨望)

 俺もゆっくりかもだけど、自分の道進もうっと。

 来年、もしくは再来年までに保育士の資格をとり、バイトでもなんでも児童福祉関係の仕事をしながら小学校の教員免許をとる。そして、ボランティアでも契約社員のようなものでも、出来うる限りの社会経験を積んでから、満を持して教員へ。

 きっと教員一本の人間とは違うはず。
そうそう、今日血液型の話をしていて(信憑性は低いかもしれないが)、B型って他人と違うことをしたがる人多いよねという話になった。

 そうだ!結局人と違うことがしたいという一点に集約される。でも、違うことをしているようで、前に誰かがやっていることだったりもする。

 まぁ世間一般で言われるような、社会を知らない教員にはなりたくないだけ。そんなのみんな一緒。

まぁ、児童関係の仕事は決して高収入にはなりにくいが、一生それを貫きとおしてやろうじゃないか。

太陽

2001年11月4日
 僕がよく聴く槇原敬之の歌に「太陽」という歌があります。これは、麻薬所持事件後、初めて出したアルバムの曲です。そしてアルバムのタイトルにもなっています。

 その歌の歌詞の中で、こんなものがあります。

 ♪今まで一度も自分に
  嘘をついたことはないか?
  違うのに正しいと
  やり過ごしたことはなかったか?

  問いかけたとき僕は気づく
  喜びも悲しみも
  自分がすべて選び
  心に招き入れていることに♪

 色んな経験をして、いつも回りのせいにしたり、悔やんだり悩んだり。
 そんな中で、少し自分に問い掛けてごらん…
「自分で選んで心に招き入れているんじゃない?」って。

 好きでやっているんじゃない!と叫びたくなるようなことでさえ、自分で選んでいるんじゃないって。

 太陽…、何も求めずに 何も変わらずに いつも僕らを照らす太陽 と歌の中で言っています。
太陽は、いつも変わらず人々に暖かさと、光を与えてくれている。人が喜ぶことも、苦しむことも望んではいない。

 全て自分が選んでいることなんだよって。

 僕が、新卒での就職を見送ったことも、人と出会う喜びも、悲しみもぜーんぶ自分の選択なんだなぁ。

 当然のことでもあり、ちと残酷な気もする。

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